(八)
八月 十一日 月曜日 午後五時三十分 早野 有里 それから一週間、幸いにして父の発作は起きなかった。
わたしたち親子の愛に満ちた看病と、薬の効果かな?
そして、その間にお母さんへの説得も行われた。
お父さんの治療方法と医療費のことも、うまくごまかさないといけない
からね。
このあたりは、専門家である松山先生にお任せしたの。
あの先生、作り話を信用させようとして嘘の申請書を片手に迷演技…
…?!
結局、お母さん。あっさり騙されちゃって……最後はボロボロと大粒の
涙を流しての嬉し泣き。
ついでに、わたしも思わずもらい泣き。
あの時のお母さんの顔は今でも忘れられない。
……号泣してるのに輝いていた。
話の内容は、臨床試験の患者になる条件としてお父さんの医療費は免除
されるとか……
でもそんなこと、どうでもいいじゃない。
お母さんにはいつまでも笑っていて欲しいからね。
「ねえ、お母さん。
お父さんって……わたしたちのこと、どう思っているのかな……?」
西日の差す病室でお父さんの寝顔を見ていたら、何かふっと聞きたくな
って話し掛けていた。
「うーん、そうねぇ。一言……ありがとうかな」
少し考える素振りをみせて、母は意味深な答えをした。
「……ありがとう。それだけ……?」
不満そうな声を上げたわたしの横に母は並ぶと、父の頭を撫で始める。
「照れ屋さんのお父さんに、それ以上の言葉は必要ないと思うわ」
「……そうね。その方がお父さんらしいかも……」
納得したようにうなづいて、わたしもお父さんの頭を撫でていた。
この一週間……
お父さんには申し訳ないけど……ある意味、わたしたち家族にとっては
幸せな時間だった気がする。
相変わらずお父さんの意識は戻らないし、お母さんと一緒に病院へ通っ
ては病室で過ごすだけの毎日……
でも、そんな日々が貴重で有意義な時間……
今になってみればきっとそうかも……
よく考えてみたら、こんなに長期間、家族3人が揃うことってなかった
よね。
「……有里。お母さん明日からパートの仕事に戻ろうと思うの。
お父さんの具合も安定しているし、せっかく見付けた仕事だからね。
……あまり長いこと休んで、クビにでもなったら大変でしょ」
お父さんの顔に日が差さないように、ブラインドを調節しながらお母さ
んが話し掛けてきた。
「お母さん、お仕事がんばってね。
わたしも、そろそろ講義に出席しないと単位に響くから……明日から行
こうかな。
……それに、並木のおじさんも首を長くして待っていそうだしね」
「それじゃ有里、今晩は外食にでもしましょうか。
……明日からのふたりの頑張りに備えて、きょうはお母さんの奢り」
「大丈夫? パート代って安いんでしょ。
……あっ、ちょっと待って……メールが入ったみたい」
携帯がポケットの中で震えている。
ほんの束の間のささやかな幸せを空気を読まない誰かがジャマをする。
わたしは、湧き上がる不安を隠しながら画面を覗いた。
『今夜8時、夜間受付まで。 副島』
たった一行の何気ない文章なのに、胃がむかつき吐き気が襲う。
いよいよ来たんだ……
「どうしたの有里……?! おでこが汗でビッショリよ」
「……ごめん、お母さん。
……わたしちょっと、用事が出来ちゃった。
食事はまた今度ということで……今から友達のところに行ってくるね……」
心配そうにする母にわたしが出来ることは、咄嗟に思い付いた嘘でごま
かすことだけ……
お母さん、嘘を付いて本当にごめんなさい。
それと、有里は今日から悪い子になります。
……これも一緒に許してね。
母と病院のロビーで別れた後、わたしは駅前の本屋さんを梯子しながら
適当に時間を潰した。
そして、じれったいほど進まない時計の針にイライラを募らせて、指定
された時刻の10分前に夜間受け付けを訪れた。
窓口で応対した職員さんは、愛想の悪い人だった。
値踏みするようにわたしの顔を見て、一言「案内の者が来るまで、その
辺で待っておけ」って……
瞬間、ムカッてきたけど、ここはぐっと我慢我慢。
わたしは言われた通り、壁に寄り添うようにして待っていた。
しばらくして、通路の奥から男性がひとり歩いて来るのが見えた。
その人は白衣を着た松山先生ではなく、スーツ姿のもっと大柄で体格も
良くて、ただ怖い顔をした人。
普段なら目を合わせるのも勇気がいるって感じ……
おまけに受付で待っているわたしに、あごをしゃくるようにして付いて
来いだもんね。
……受付の職員さん共々、失礼よね。
それからわたしは結構歩かされた。
薄暗い廊下を右に曲がり左に曲がり、途中で方角さえわからなくなって、
ここはどこ? ってなってた。
それなのに、大柄で怖い人はわたしを振り返ることなく歩き続けた。
一言も話しかけてくれずに、まるでわたしの存在を否定するように……
軽いウォーキング気分を味合わされて連れて来られたのは、彫刻が一杯
施された両開きの扉の前だった。
実用重視の建物に、なぜ? って思う扉だったけど、それのドアノブに
付いているキーボードにも、なぜ? って感じ……
今、例の怖い人が、ドアノブに向かってピッピッってなにかを打ち込ん
でいる。
……暗証番号かな。
わたしの方からは見えなかったけどね。
扉がひらくと、わたしを置いて案内人さんは去って行った。
結局彼は、一言もしゃべってくれなかった。
さあ、今からわたしにとっての戦争ね……
きみも応援してよ。
ただし、気を利かせて目を瞑るのも忘れずにね。
わたしは警戒するように部屋の中央までは進まず、扉の入り口付近から
中を窺った。
大きなガラスの嵌めこまれた木製のキャビネット。
フレームが銀色に光り輝く天板が厚いガラスで出来たテーブル。
それに向かい合うように配置された、大人4人が充分に座れる皮張りの
ソファー。
なんか、ゴージャスって感じ……
思わず履いているジョギングシューズを脱ごうとしたくらいだから……
……なにか抜けていないかって……?
……わかっているわよ。
わざと話題から外していただけ……
わたしの視野に入っているのは、ゴージャスな調度品だけではなかった。
おそらくこの部屋の主でメールの送り主であろう人は、わたしに背を向
けてソファーに座っていた。
「何を突っ立っているんです。さあ、こちらへどうぞ」
「……失礼します。あの……えっ……?!」
振り返って話し掛けてきた人を、わたしは知っている。
でも、会話したこともないし誰かも知らないけど……
確かにこの人に、自分は会っている。
わたしは、その男と向かい合うようにソファーに座った。
「あなたが早野有里さんですねぇ。これはこれは、写真以上にお美しい。
あなたとは初対面なので、自己紹介といきますか……」
「待って下さいッ……!」
男の話を遮り疑問をぶつけた。
「半月ほど前の、わたしに対するあなたの態度……
あれは一体何の真似です? ……副島さん」
忘れもしない。電車内での腹立たしい思い出……
どうせメールを送ったのも、この男だろう。
ここは強気に出て主導権を握る方が得策かも。
「ああ、ばれていましたか。あの時は、あなたに会いたい一心であんな
真似を……どうもすいません」
副島はあっさりと頭を下げた。
それも白々しい言い訳で……
無言でいるわたしを了解したと受け取ったのか、澄ました表情でまた話
し始めた。
「それでは、改めて自己紹介をさせてもらいます。
名前は副島徹也。
今は、ある方の秘書をしております。
あなたもお読みになったと思いますが、契約書に記されている管理人と
は当面、私のこととお思いになって結構です。
あとは年令とか趣味とか答えましょうか……?
なんなら、私のスリーサイズでも……」
随分とふざけた人。
それとも、わたしの緊張をほぐそうとしてくれているのかしら……?
どちらにしろ、この前の態度と今の環境を考えると、うかつなことは出
来そうにもないわね。
わたしは冷静そうな表情を作って男を睨んだ。
「意外と面白い方ですね。……でも、ジョークは下品で全然面白くない。
あ、そうでした。ひとつだけ質問してもいいですか?」
「はい、なんなりと……」
「父の治療費を出してくれている方って、誰なんですか?」
この前松山先生から聞きそびれた疑問に、この人答えてくれるかしら?
「その事ですかぁ……まぁ、いいでしょう。
えーっと、早野 有里さん。時田総合金融の社長と言えばお分かりにな
りますか?」
教えてもらえたのは簡潔明快な答え。
「時田総合金融……?」
わたしはオウム返しのように繰り返していた。
頭の中に、駅前にある巨大なガラス張りのビルが思い浮かんだ。
……確か、あの建物が男の言った会社のはず。
それは、例の駅前総合開発の旗振り役でこの地域で一番の巨大企業。
お父さんのプロジェクトも、指揮していたのは時田金融だって……
お母さんに聞いたことがある。
そしてその社長……?!
頭の中で嫌な相関図が出来あがる。
と、いうことは……わたしが身体を差し出す相手は……お父さんの仕事
の発注者ってこと……?!
……そんなことって……!
「お分かりになりましたかぁ? ……因みに、社長の名前は時田謙一。
あなたのお父さんにとっては命の恩人なのですから、お忘れなく……
それでは、時間が惜しいので手短に後の説明をさせていただきます。
……これを御覧なさい」
……失敗。
頭が混乱しているうちに話を進められてしまった。
副島って人はテーブルに置いてあったリモコンを手にすると、正面にあ
る大型の液晶モニターの電源を入れる。
……まさかテレビを見る訳じゃないよね。
「よぉーく、見てて下さいよぉ」
画面に見覚えのある顔が映っている?
「えっ、わたし……?!」
そう。映っていたのはわたし。それもかなりのアップで……
そしてボタンを押すたびに画面も変化する。
正面・真横・真上・足元から見上げるような角度に、わたしは思わず両
足を閉じ合わせた。
「驚きましたかぁ……? ここはちょっとしたスタジオになっていまし
てねぇ。あなたの撮影会を開くには、もってこいの場所でしょ」
「つまり……身体を……」
「ええ、そうです。まあ、グラビアタレントのそれとは、訳が違います
が……ククククッ……
ところで、有里さん。行為の意味について知っていますか?」
「意味って……? この場合、その……エッチをするってことでしょ!」
わたしは、迷いながらも語尾を強めて言い放っていた。
「はぁーい、正解。ただ補足させてもらいますと、あなたがエッチな行
為をすることによってお父さんの命は保障されます。
つまり、行為をした分だけ治療費が支払われるということです。
それと内容も大事ですよぉ。
なるべく男性を興奮させることが出来ればポイントが高いですからね。
どうですぅ……? 面白いルールでしょ」
「…… ……!!」
あまりにものショックで声を出すのを忘れていた。
……それって、まさか……
わたしの努力次第で、お父さんの寿命が決まるということ……?
なにも言い返せないうちに、説明だけがどんどん進んでいく。
「何も仰らないと言うことは理解いただけたとものと致します。
……それでは今日の予定を……
一つ目は、服を全て脱いでもらい、その姿をカメラに収めます。
二つ目は、あなたの性感をチェックします。
三つ目は、私とセックスをしてもらいます。
ここまでが今晩の予定です。
因みに、何時になろうとこの予定通りに実行しますので悪しからず……
……おやぁ、顔色が優れないようですが、大丈夫ですかぁ……?」
「はい……何ともありませんから……続けて下さい」
わたしが想像していたものと全然違う。
男の人と、その……セックスをするだけでも死ぬほどの覚悟がいるのに、
それって……他にも色々なことをさせられるってこと?
考えただけで吐き気がしてきた。
こんなことなら胃薬を持ってくれば良かったかな。