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伸ばした両手 届かない夢 その1






















(14)


4月 6日 日曜日 午後2時55分   岡本 典子



「はあ、はあ、はあ、はあ、うううんんっ、はぁぁ……」

私は、淫らな残り火のけだるい刺激に、身を任せていた。
激しく上下する胸の上で、乗せられた手の指がキラキラと輝いている。

「典子の指……いやらしい……」

苦しい息の合間に、息継ぎのようにつぶやいてみる。
続いて出そうになる言葉は、口にはしない。
これは、私と博幸だけの秘密の会話だから……

このまま、まどろみたい気分……

雲間から差し込む柔らかい陽を浴びながら、私はじっと天井を見続けていた。
女の匂いが漂う汚れたシーツの上で、汚れた性器を晒したまま、乱れたスカートを直すことなく寝転んでいた。

「これからどれだけ続くのかな?
こんな行為……」

天井を見ていた視線を、窓から覗く雲の塊へとずらしてみる。
この曇って……?

昔、教科書に載っていた『くじらの雲』のお話を思い出す。

そう、空の上を自由に姿を変える雲。
たとえ風任せでも、別れてはひっついて、いつかは、また一緒になっている。

「いいなぁ……典子も出来ることなら……お空に浮かぶ雲になりたいな……」

また、あなたと……

ちょうどその時、近くの工場から午後3時を知らせるサイレンが鳴り響いた。

「やだ……もうこんな時間……」

私は慌てて身体を起こすと、ベッドの上に散乱している服を身に着けた。
そして、役目を終えたように、画面が暗くなっているスマホをポケットにねじ込むと、写真立てに手を触れる。

「さあ、典子のお花見は、これでおしまい。
博幸も、いつまでもベッドばかり見てないで……
今日の夕ご飯何にするか、考えてよね。
そろそろ、お買い物に行かないといけないから。
……あっ、そうだ。
1階で店番しているあの人に、お使い頼もうかな?
なんでも、自信作のパンを売るんだって張り切っていたけど、ぼちぼちみたいだしね。
博幸も暇だったら、ちょっと見てあげたら……
それじゃ、行くね……」


「はーぁ……おいしい……」

夕食の後に番茶をすするのって、最高ねぇ。
やっぱり、日本人に生まれて良かったなぁって、このときばかりは、感動ものよね。

ねっ、あなたもそう思うでしょ?

な、なによ! 夕ご飯食べさせてあげたのに、その恨めしい目付きは……!

えっ? どうして夕食なのに、パンのフルコースなんだって……?

パンのステーキにパンの天ぷら、パンのお漬物にパンの入ったお味噌汁。
主食は、お茶碗に盛られたてんこ盛りのパン。

こ、これのどこが……ふ、不満なのよ!
ここは、パン屋さんなの! 
お店の新メニューを研究しているんだから、仕方ないでしょ!

それになんだかんだ言って、あなた完食してるじゃないのよ。
実は、おいしかったんでしょ? 典子の編み出した新メニュー♪♪

もう、首の振り方間違っているわよ。
首はね、左右じゃないの。縦に振るのよ。
あなたって、意外とそそっかしいんだから♪♪

さあ、お腹も満腹になったことだし、今夜も典子の哀しーいお話に付き合ってね♪♪
だいじょーぶ。居眠り始めたら、おでこに押しピン刺してあげるから、安心して……♪♪

ふふふっ。じゃあ、耳を澄ましてよぉーく聞くのよ。


私は、博幸を亡くした後、必死になって働いたの。
パン屋さんを開店したときから懇意にしてくれた税理士さんのところで、お昼間は事務のお仕事を……
夜には、近くの飲食店で店員のアルバイト。
ただし、いかがわしいお店ではないので、あしからず……だよ。

でもね……というより……本当のところは、そういう肌を見せるお店で働くことも考えたわ。
チラシを片手に電話を掛けようとしたことも、1度や2度ではなかったもの。

この家の購入ローンに、お店の設備投資費用。
貯金を全部はたいて、財布の中も全部空にして、その上この1年間、少しでも多く返済しようとふたりで一生懸命がんばってきた。
けれど、私ひとりでは利息を払うのが精いっぱいって有様。

親しい知り合いからは、何度も警告されたわ。

『悪いことは言わない。早くその店を処分して、典子の人生やり直しなさい。
あなたは、まだまだ若いんだから』って……

でも、そんなこと出来るわけないでしょ。
頭の隅のどこを探しても、私にはそんな考えはなかったんだから。

そうよ。『今は無理だけど、必ずお金を返して、典子自身の手でベーカリー岡本を、復活させるんだ』って……
『この街の再開発からもお店を守るんだ。』って……

ふふふっ……無謀よね。世間知らずの甘ちゃんだよね。

……でも、そんなこと言われなくてもわかってた。
わかってたけど……理解してたけど……

……ね、あなただって思うでしょ。典子の気持ち……

だから私は、周囲のみんなが呆れるのをよそに行動したの。

市役所に何度も足を運んでは、そのたびに門前払いされて……
少しでもお金を稼ごうと休日までアルバイトして……

届かない両手を必死に伸ばして……
『まだやれる。典子はまだまだ全力を出し切れていないよ』って、何度も折れそうになる自分を励まして……
99%正しい現実と戦っていた。
残り1%に掛けて……

そして、とことん疲れ切っちゃって、徹底的に絶望に打ちひしがれちゃって……
微かな希望までもが、粉雪が溶けるように消え去ろうとした時……?!

私の元に、天使の顔をした悪魔が舞い降りて来た!
昔の恋人の顔をした悪魔が……?!



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