(1) ドボォーンッッ!
月明かりに照らし出された水面に、一筋の水しぶきが上がり、それは円形の波紋となって拡がっていく。
午前1時……
今、ひとりの男性が底深いダムに向かって身を投げた瞬間であった。
(暗い……苦しい……俺は……早まったのか?)
男は闇に染まる水の中をもがきながら沈んでいく。
やがてその闇が、あの世へと繋がっていることに気付いた時、男はひどく後悔した。
自分の浅はかさを悔いた。
(こんなことなら、せめてあの娘と……)
何度もそう思い。そう願い。
記憶と時間が渦を巻き融合した世界で、誰かが語りかけてきた。
『お主に地獄の門をくぐる覚悟あるならば、今一度現世に戻すほどに。
但し、戻るはお主が魂のみ。如何?』
肉体を朽ちさせながら男は応えていた。
この世に置いてきた、ただひとつの未練を果たすために……
「か、佳菜……ノブくんとなら……して……いいよ」
わたしは、ぶ厚い手を握り締めながら呟いていた。
胸をドクドクさせながら……
ちょっとだけ眩暈を感じながら……
土手に拡がる草むらを見つめて……半径10メートルに耳を澄ましている人がいないか黒目だけ走らせて……
打ち上がっては、バーンッって鳴る花火の大音量に紛れ込ませるつもりだった。
そのたびに湧き上がる大声援にかき消してもらうつもりだった。
なのに……
ノブくんは、ぎゅっと手を握り返してきた。
佳奈の呟きをOKしたよって……とっても嬉しいって……
こういうときだけ、男の子って神経過敏なのかな?
それとも、小さな町の小さな花火大会なんかより、ずーっと佳菜の方が気になっていたのかな?
でもわたしは……佳菜は……ホントはまだまだ迷っているのに。
だからホントはホントは、スルーして欲しかったのに。
ノブくんを見上げたお空の上で、大きなお花が開くのを待って……わたしは……
「今から……しよ……」
お腹の下がジュンってなるのを気しながら呟いちゃった。
青く輝く月光とともに、水面に咲く花火を見つめながら。
「ねえ、ノブくん。どこまで行くの?」
「それはね……う~ん、秘密」
「もう、ノブくんの意地悪!」
ノブくんが運転する車は、町を離れて北へ北へとカーブの多い山道を上っていく。
ホントにどこへ連れて行ってくれるのかな?
これから先は大きな峠で、隣の町までは30キロくらいあるし、たぶん……たぶんだよ、ラブラブホテルとかもないと思うし……
わたしは免許取りたて初心者マーク付きの助手席で、大好きなノブくんを見つめた。
眉毛が太くて肩幅が広くて、学生時代のときよりも凛々しい感じがして……
でも、今夜ノブくん。ちょっと変だな。
今だって、佳奈の視線に全然気が付いていない。
真っすぐフロントガラスを見つめながら、ニヤニヤしているんだもん。
因みに、幼なじみだったわたしたちは、今年の春、同じ高校を卒業して地元にある同じ会社に就職した。
ノブくんは工場の現場で、わたしは事務員として。
本気で彼のことを好きになっちゃったのは、高校生になってからかな。
でもお互い、学生の間はクリーンでいようねって、なんとなく申し合わせていたら、それが社会人になってもズルズル続いちゃって、まだキスどまりなんだから。
もちろん、お肌の触れ合いなんて一度も……
友達のミヨリンなんか、もうとっくの昔にバージン捨てちゃったって、佳菜のことを子供扱いするし、マナリンなんか、高校を卒業と同時に結婚して現在妊娠3か月目だし……
だから佳菜もって、背伸びしてちょっと優柔不断のノブくんを誘ったつもりが、あっという間に急展開。
男の子って、なんでこうせっかちで単純なのかな?
「ちょっとノブくん、どこまで行くのよ。
さっきから対向車も来なくなったし、前を走っていた車もいなくなったじゃない。
ねえ、引き返そうよ。佳菜、なんだか怖い」
「もう。佳菜は臆病なんだから。もう少しだけ、もうちょっとだけ我慢してよ。
会社の先輩に、とってもいい所を紹介してもらったからさ」
「えっ! ノブくん、それってエッチを前提で……?
もう。男の人って会社の中でそんな話をしているんだ。信じらんな~い。なんだか不潔~っ」
「そりゃないだろ。僕だって、ここぞという時に備えて準備をしてだな。
佳菜をよろこばせようと思ってさ」
「佳菜をよろこばせるって……?
それって、喜ぶ? 悦ぶ? 心が? まさか身体ぁ? いやぁ、ノブくんのエッチぃっ♪」
わたしは、目を細めながら大げさに笑った。
ふたりの初エッチのために、ノブくんがちゃ~んと準備してくれてたのが嬉しくって。
ううん、それ以外に……というかこっちが本命で、誰かに覗かれているような気がして……
その間も、目的地に向かって車は走っていく。
カーブをクルクル回って、坂道をドンドン上って。
そして、峠の手前に横たわる黒々としたダムが見えてきた。
月明かりに照らしだされた鏡のような水面が、助手席の窓一面に拡がった頃。
無人の駐車場に吸い寄せられるように車は停まった。
これって……?! ただの休憩だよね。ねえノブくん?
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