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父 危篤























(六)


八月 四日 月曜日 午後七時  早野 有里
  


        それから幾日か経ち、季節は一番夏に相応しい8月に入っていた。

        連日の猛暑にわたしの体力も低下、自慢の食欲も少々ダウン。
        ……それに比べてお母さん、身体の方は元気だよね。
        慣れないパート勤めをしながら、時間の許す限りお父さんの付き添い、
        それにわたしの食事に家事全般。
        ……おまけに全然痩せてこない。

        ある意味すごいと思う。
        わたしも、見習いたいような、そうでないような……



        そんなある日のこと……
        その日は、真夏にしては珍しく朝から憂うつな雨が降っていた。

        「おじさん、今日はお客さん少ないね」

        わたしはテーブルを拭きながら窓の外を見ていた。
        どんよりとした雨雲のせいで店の中まで暗い。

        「仕方ないさ。たまには、こういう日もあるってことよ……」

        「あら、随分と余裕ね。おじさん」

        やっぱり、この人は偉いな。
        ……わたしにはこんな余裕全然ない。ちょっと見習おうかな。

        結局その日は、季節外れの雨にそば屋並木はノックダウンさせられた。

        「有里ちゃーん。そろそろ店を閉めるから、暖簾を頼むよー」

        調理場から、多少落ち込んだおじさんの声が聞こえた。

        わたしは少し低めのトーンで返事をすると、磨りガラスの引き戸に指を
        かける。

        トゥルル、トゥルル、トゥルル、トゥルル……

        その時お店の電話が、空気の読めない困ったちゃんみたいに鳴りだした。

        「いいよ、おじさん。わたしが取るわ」

        電話に出ようとしたおじさんを制して、わたしは受話器を耳にあてた。

        「はい、そば屋並木で……あっ、お母さん? どうしたの……?」

        「有里ッ! お父さんが……!」

        「お母さん、しっかりしてッ! ……何があったの……?」

        「今、病院から連絡があって……お父さんが発作を起こしたって……
        それでお母さん、今からお父さんの所に行くから……
        そのことを有里にも知らせておこうと思って……」

        「うん、分かった。わたしも直ぐ行くからね。
        ……それまで、お父さんのこと頼むねッ!」

        慌ただしく受話器を置くと、心配そうに顔を覗かせたおじさんに事情を
        話した。

        「そう言う事だから……ごめんね、おじさん……」

        「店のことはいいから、早く行ってやりな。
        タクシー代ならおじさんが出してやる。さっ早くッ!」

        「……ありがとう。それじゃ行くね」

        エプロンをむしり取るように外すと、表へ飛び出し大通りへ急いだ。
        そして、通り掛ったタクシーに乗り込むと父の待つ総合病院の名を告げ
        る。

        わたしは祈るようにつぶやいていた。

        「お願い。がんばって……お父さん……」



        わたしが病院に駆け付けた時には、父は治療の真っ最中だった。

        一階にある集中治療室の前で、母は頭を抱え込むようにして椅子に座っ
        ている。
        わたしは恐る恐る声を掛けた。

        「お母さん……お父さんは……?」

        「あっ、有里……来てくれたんだね」

        母の表情に最悪の結果が訪れていないことを確認すると、少し安心する。

        「うん。で、お父さんの具合は……?」

        「それが……お母さんも今着いたところなの。
        病院の話によるとお父さん、急に発作を起こしたって……
        それで家に連絡が入って、あなたに伝えた後、慌てて病院に駆け付けた
        ところなのよ。……今、先生が診察しているところ」

        髪が乱れたままの母を見れば、事態の深刻さは分かるつもり。
        ……でも、悪い夢を見ているみたい。

        わたしは、これは現実なんだと自分に言い聞かせながら、治療を受ける
        父の姿をガラス越しに追った。

        ……30分……1時間……
        ……やっと治療室のドアがひらく。

        「先生ッ、主人は……」

        先に席を立ち上がったのはお母さんの方だったけど、後の言葉が出てこ
        ない。

        父の担当医である松山先生は、小さくうなづくとわたしたちふたりを手
        招きした。

        「どうぞ、こちらへ……」

        案内されたのは、父がいる集中治療室に隣接する診察室。

        「先生……父は助かるんですか……?」

        わたしは、口を閉ざした母に代わってストレートに聞いた。
        そして返ってくる応えに恐れた。

        「……命は取り留めました。ただし、非常に危険な状況です」

        それじゃあ、どっちなの?
        覚悟していたものと微妙に違う回答に戸惑いがでる。

        「後は、早野さんの気力しだいと言ったところでしょうか」

        「気力ですか……」

        「はい、そうです。それと、持ち直したとしても、また発作が起きる可
        能性もあるということをお忘れなく」

        わたしは人ごとのように淡々と説明する先生に、素直にお母さんと一緒
        で良かったと思った。
        ひとりだと、もっと失礼な言い方をしていたかも分からないし、自分は
        この人が苦手だから……

        「それでは、発作が起きなければ父は助かると……」

        「……ええ。ただし……意識が戻るかまでは分かりません」

        歯切れが悪くて、返ってくる応えはこの後も悲観なものばかり……
        わたしは落ち込む母を抱きかかえるようにして診察室を後にし、集中治
        療室の前に戻って来た。

        「お母さん、無理かもしれないけど元気だして……」

        「…… ……」

        「ほら、先生も仰ってたでしょ。発作さえ起きなければ大丈夫だって……」

        「でもね、有里……」

        「……それ以上、言わないでよ。わたしにも、そのくらい分かっている
        んだから……」

        「ごめんね、有里……お母さん、頼り無くて……」

        「もう、また泣く。それより今夜はどうするの? 
        先生に頼めば、一晩泊らせてくれると思うけど……ちょっと聞いてくるね」

        これ以上落ち込むお母さんなんて見ていられない。
        わたしはその場から逃げるようにして、再び診察室に向かった。