(三十)
八月 二十日 水曜日 午前九時 水上 千里 「あーぁぁぁぁ」
私は電車のつり革に掴まりながら、小さくあくびした。
あ、断っておくけど、あの声じゃないわよ。
実は昨日の朝から一睡もしていないの。
と、いうのも、この病院に勤め出してから、初めての昼勤、夜勤の連続勤務をこなしたから。
因みに、今は帰りの電車の中ってこと。
ただ、いい天気よね。
8月の陽差しって、ギラギラした太陽を思い浮かべるけど、私はこの季節が好きだな。
なんだか、心まで解放的になって……
このまま海まで行って、ちょっとエッチな水着で浜辺を散歩したい気分……
でもねー、現実は厳しいな。
今日も、夜勤シフトなの。
このまま、アパートに帰ったらパタンキューで、夕方からまたお仕事……
とても、海には行けないな。
こんな可哀そうな私が、今出来ることと言えば……
そうよねぇ、降りる駅までもう少し時間があるから、このまま昼寝じゃなくて、朝寝? することかな……
私はそう決めると、人目もはばからずうとうとし始めた。
「あんたたちッ! なにやってるのよォッ!」
なに? ……なにかあったの……?!
威勢良く啖呵を切った若い娘の声に、私は夢から連れ戻された。
そして、車両内が重苦しい雰囲気に包まれているのに、気が付いた。
もう、人がいい気持ちで睡眠してたのに……
私は、霞んだ目を細めながら、威勢のいい声の主を探した。
あそこにいる……
私が吊革にぶら下がっている所から、そうね……10メートルくらいかな。
隣の車両との連結部付近に、どう見ても違和感のある体勢の男女の姿がある。
ジーンズにTシャツ姿のラフな感じの少女が、若いサラリーマン風の男性を庇うように立っていて、相手は、男が3人。
茶髪で、首に何かのタトゥーをした背の高い男に、あとのふたりは金髪で、こちらも、腕や肩にタトゥーをして、どちらかというと、ずんぐりな体型をしている。
その上3人揃って、耳や鼻に趣味の悪いピアスをいくつもひっつけて……
結論として、こんな時間から暇を持て余していそうな、どうでもいい人たち。
「よぉ、姉ちゃん。威勢がいいなぁ。
こんな、歯ごたえのない男は、ほっておいて、俺たちと仲良くしなーい。
はははは……」
「……くッ、そんなのお断りよ。誰があなたたちなんかと……
大体、3人がかりで、たったひとりをいじめるなんて、卑怯よッ! 最低よッ!
男だったら、清々堂々と一対一で勝負しなさいよッ!」
「クククッ、言ってくれるねぇ。
今時珍しい、強気な姉ちゃんだな。
おいっ……」
リーダー格らしい真ん中の背の高い男が、なにか考えがあるのか、あとのふたりに目配せした。
この男、首筋にサソリのタトゥーをした、ちょっとまともじゃない目をしている。
……まずいわね。
こういう連中は、くだらないプライドだけは、しっかり持っているから、厄介なのよね。
事の重大さに気が付いた私は、じっと推移を見守る他の乗客を見回してみる。
一生懸命、音楽に夢中になろうとヘッドフォンを付けている人……
うつむいたまま、耳を閉ざすように震えている人……
そして、大多数が、眠くないのに寝ている人たち……
その他に……?
あれっ? 今、レンズが光ったように思ったけど気のせいよね。
そうこうしているうちに、男たちと若い娘の間がどんどん詰まっていく。
おまけに、手下らしいふたりは、威嚇するように他の乗客を睨みつけている。
ついに、背の高い男が、面白半分に少女の胸を掴んだ。
「キャアァァァッ! なにすんのよッ! このスケベッ!!」
甲高い悲鳴が車内に響いて、緊迫感がますます増していく。
少女は咄嗟に、胸の前で両手をクロスさせると、ジャンプするように半歩後ずさった。
もう、一刻の猶予もなさそうね。
私は、覚悟を決めると、男たちに向かって歩き始めた。
「あなたたち、見苦しいわよ。
こんな子供相手に、大の男が3人がかりで……
恥ずかしいと思わないの……?」
こういう時は、なるべく声のトーンを落とし気味に、そして、ゆっくりと落ち着いた口調で……?
「なんだぁ、てめぇ」
手前の部下らしい金髪の男が、私を睨みつけてくる。
ここで視線をそらしたら負けよね。
私は、いきがる3人の目を順番に睨みつけてから、窓ガラスの外に目をやった。
そして、少女の顔をチラリと見て驚いた。
あなたは……!!
少女の方も気がついたみたい。
頬を赤くしながら、驚いた顔をしている。
「なんだと言われても困るけど……
私もこの子と同じ女性なのよ。
あなたたちも、まさか女に手を出すような、恥ずかしい真似はできないでしょう?」
もう少し、あと少しで……
私は再度、窓の外の景色を確認すると、私の斜め後ろで身構えている少女に目で合図した。
「おいっ、俺たちはなぁ、男だろうが、女だろうが関係ない。
ただ、やり方が違うだけだ。やり方がな……ふふふふッ……」
そう言うと、空間でなにかを掴むように、指を動かした。
下品な人……
「そうですか……
でも、お生憎さま。
私に触れることは、あなたたちには出来ないと思いますから……」
「なんだとぉ、人をこけにしやがって……
このぉ……おぉっとッ!」
突然、車内がガタガタと揺れ、いきがっていた男たちがバランスを崩した。
電車が駅に停車するために、ポイントを超えたみたい。
「今よッ!」
私の掛け声より先に、少女が動いていた。
あっという間に、車両連結部分の扉の先に、その身体を消していく。
あの子は、走っているんじゃない、飛んでいるんだ。
そう思うくらい、一瞬の出来事だった。
もちろん、私も続いた。
そして、少女が隣の車両に向かって走り抜け、私も走り抜けた。
あとは、電車が止まると同時にホームに飛び出し、駅員を呼ぶだけ。
…… ……?
まだなの……
いつもより、停車に時間がかかっている。
早くしてくれないと……やっぱり……
ガタンッて音がして、男が3人、怖い顔でこっちに向かってくるじゃない。
やばいよ。ほんとに……ついてないなぁ。
私は無念そうな顔をした。
隣にいた少女も、無念そうな顔をしている。
そして、もうだめって覚悟したときに、これって奇跡……?!
「♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪……!!」
突然、車内に大音量の着メロが、響いてきた。
全ての視線が、音量の発信地であるひとりの少女に集中している。
当然、ならず者3人組も……
プシューッ!
手間取っていた電車がやっと停車し、扉がガタッという音を残してひらいていく。
助かったかも……?
私と少女はホームに飛び出した。
続いて、音量の主の少女も飛び出して来る。
「駅員さーんッ!」
私たち3人は、ホームの上で大げさに手を振った。
結局男たちが、降りては来ることは、なかったけど……
「おかげで助かりました。ありがとうございます」
少女、ううん、早野有里さんは、私の前で大げさに頭を下げた。
そして、もうひとりの少女に目をそらしながら、ぼそっと小さな声で、ありがとうって言うのが聞こえた。
うーん。このお嬢さんたち、知り合いなのかな?
私は、少し勘ぐってからふたりを誘った。
「ケーキでも食べにいかない?
私が、ごちそうするわよ」
「ケーキ……?」
「喜んで……」
前者が、目を輝かせた有里さん。
後者が、控えめに応じた、舞衣さんっていう少女。
私たち3人は、駅の1階に入っているカフェで、しばらくの間、他愛もない話に夢中になっていた。
私は、前に勤めていた産婦人科での体験談を、多少オーバーに話して聞かせた。
女性が妊娠して、出産するまでの過程を詳しく話していたら……やっぱり、ふたりとも女の子よね。
目を輝かせて、大きくうなづきながら聞いているんだから。
本当は、一昨日の気になることを、有里さんから直に聞きたかったんだけど……
舞衣さんも同席していたしねぇ。
それになぜだか分からないけど、今はこの話題を口にするなと、私の心がブレーキを掛けてくるの。
私って、まさか霊感が強いタイプかも……
だから逆に、私はふたりに通っている大学について聞いてみた。
ふたりとも、教育科に通っていて、将来は小学校の先生を目指しているらしいの。
夢が有るって、素晴らしいよね。
それに、いいよねぇ。大学生って……
なんか、自由を謳歌しているみたいで……
私も行きたかったな、大学……
ただ、ちょっと気になることがあったわ。
このふたり、私とはそれぞれしゃべるんだけど、ふたりの間になにかあるのか……
ほとんどお互いからは話そうとはしないの。
まあ、人にはそれぞれ、悩みがあるもんだし、私にも、人には言えない辛い悩みがあるから……
私は、もう一度ふたりを見比べてみた。
ちょっと勝気で、幼く見える有里さんと、優雅なたたずまいを見せて、ちょっと大人の雰囲気が漂う舞衣さん。
このふたり、今はギクシャクしているけど、きっと仲直りすると思う。
「ごちそうさまでした」
「千里さん、ケーキおいしかったです」
「私も楽しかったわ。また3人で、時間があれば会いましょうね。
なんだか、ふたりを見ていると可愛い妹たちに見えてきた」
「わたしも、千里さんがお姉さんだったら、いいなって……」
「わたしは、なんだか、照れくさいな。
ところで、千里お姉さん。
わたしって……まだ、子供ですかぁ」
有里さんが、少し口をとがらせている。
多分、電車内での私の言葉を思い出しているんだと思う。
だとしたらこの子……見た目以上の記憶力というか、あの状況で度胸があるというか……
「まあ、私から見ればふたりとも、まだまだ子供ね」
「そんなぁ……」
「えっ、わたしもですか……」
「そういえば、あの若いサラリーマン風の人って、誰なの……?」
「わたしも、知らないんです。
突然、わたしの目の前で、あの人が男たちに因縁をつけられていて、それで助けに入っただけで……」
「そ、そうなの……?
でも、女の子なんだから、あまり無茶はしない方がいいわよ」
私は、少し気になっていた。
あのとき、男たち以外に刺すような視線があったことに……
気のせいであれば、いいんだけど……
「あっ、いけない。もう、こんな時間……
講義に遅刻するぅ。
舞衣……ううん、千里お姉さん、また、誘ってくださいね」
有里さんは一瞬、舞衣さんの名前を呼び掛けて、慌てて訂正した。
もう、あの子も意地っ張りなんだから。
「わたしも、失礼します。
今日は、ありがとうございました」
舞衣さんは、丁寧にお辞儀すると、有里さんの後を少し距離をあけながら、追い掛けていった。
なにがあるのか分からないけど、仲直りしてよ、おふたりさん。
さあ、私も早く帰って寝ようっと……
目次へ 第31話へ