(三十三)
八月 二十二日 金曜日 午前十時 早野 有里 わたしが教室に入ったのは、講義が始まる2分前だった。
もう少しで遅刻ってタイミングを、全速力で滑り込んで、ギリギリセーフ……
普段のわたしなら珍しくない光景だけどね。
でも、今日は違った。
だってわたし……
教室の前の廊下で、壁に寄り掛かっていたから……
そうね、10分以上前からかな。
それだったら、中に入れば? って、思うかもしれないけど……
どうしてかな? 両足が動いてくれなかったのよ。
でもね、さすがに講義をさぼるわけにいかないでしょ。
だからね、わたし、むき出しの太ももを思いっきりつねってあげたの。
いつまで、わがまましてるのって……
教室に足を踏み入れた途端、複数の視線がまとわりついてきた。
普段から、こんな視線を浴びていたのかな……?
それとも、今日は特別……?
わたしって美少女だから、仕方ないよね。
「有里、こっちこっち……」
わたしは、必死で自分を騙し続けると、理佐が用意してくれていた窓際の席に、慎重に座った。
そして、太ももをピタッと閉じ合わせた。
「どうしたの? 随分と遅かったじゃない。
私より先に校舎に入ったのに、どこへ行っていたのよ?」
「ちょっと、そこで呼び止められちゃって……お話していたの……」
「えっ、誰と……?」
「それは……」
「まあ、いいわ……
聞かないでおいてあげる。
今日の有里の服装を見れば、想像付くしね。
……でもね。気を付けなさいよ。
男は充分吟味しないと、取り返しがつかないからね」
理佐は、人生の先輩のような口ぶりで警告してくれた。
そうよね。男は危険で残酷な生き物……
その警告、もう少し早く聞きたかったな。
わたしは、机に身体を押し付けると、両腕を机の上でクロスした。
こうしていれば、胸のふくらみも半分はごまかせるはず……?
ガラガラガラガラ……
教室の前の方で扉のひらく音がして、若い講師が入って来た。
生徒の視線が、教卓に集中してる。
わたしは、黒目を左右に走らせた。
そして、副島に押し付けられたボールペンを、さりげなく机の上に置く。
確か、ペン先を自分の方に向けるんだっけ。
でも、これがカメラだなんて、本当に信じられない。
どう見ても、ただのボールペンにしか見えないもの。
……やっぱり、男は危険ね。
自分の性欲のためならこんな物まで作り出すんだから。
わたしは、ボールペン風カメラをにらみつけてみた。
あの人……きっとどこかで、わたしのことを監視してる。
そして、わたしの恥ずかしいファッションを覗いてニヤニヤしているんだわ。
講義が始まって30分……
どこからか、スヤスヤと寝息が聞こえてくる。
誰よ、授業中にお昼寝してる人は……?
これだから、今の若い者はって、馬鹿にされるのよ。
それに、あの講師。授業の中頃になると、必ず出来の悪そうな生徒を指名して、教卓の前で模範解答を説明させるのよね。
まあ、成績優秀なわたしは指名されたことはないけれど……
「この国の……○○における……○○は……で、ありまして……」
「……それに……進んだ……?……?……」
「……?……?……」
「……スーゥッ、スーッ、スーッ……」
「……早野さん……」
「……早野有里さーん……」
「……早野ォッ!!」
えっ? わたし……呼ばれた?
隣の席で理佐が、呆れた顔でわたしを見ている。
何人かの生徒が、振り返るようにしてわたしを見ている。
そして、ありえない先生のご指名が……
「早野さん、ここに来て私の質問に答えてもらいましょうか?
ぐっすりと眠っておられたようですから、頭のリフレッシュも出来ているでしょう」
クスクスと含み笑いが聞こえる。
わたし、こんなことで目立ちたくなかったのに……
どうして、居眠りなんか……
有里のバカ、あなたは大馬鹿者よ!
「どうしました。立てないんですか? 早野さん」
先生の催促に、ますますみんなの視線が、わたしに集中してる。
隣で、理佐がお手上げのポーズ。
わたし、友だちにも見捨てられちゃった。
(副島、あなたのせいで……)
わたしは、憎々しげにボールペンを睨みつけると、普通を装って立ち上がった。
瞬間、お尻が突き出されて、スカートの裾が後ろにパッとひらいた。
でも幸運だったのは、理佐が一番後ろの席を確保してくれていたことかな。
そうでなかったら、今頃、男子諸君の大半が鼻から血を流して、仰向けに倒れていたかもしれない。
わたしは、周囲に視線を走らせながら、教科書を太ももにひっつけて、慎重に歩き始めた。
教卓までの道のりが、とんでもなく長いものに感じてる。
それに、視線が……無数の視線が……わたしに、ううん、わたしの身体に嫌と言うほど注がれて、出来るものなら、今すぐここから逃げ出したい。
ゴクッ、ごくっ、ゴクッ、ごくっ……
男の子が唾を飲み込んでいる。
女の子が、蔑むような軽蔑の眼差しを送っている。
わたしのむき出しの肩を……
スカートからはみ出た太ももを……
無数の視線が刺してくる。
恥ずかしくて、恥ずかしくて、片手で胸を覆って、片手でスカートの裾を押えたいのに……
そんなことをしたら、余計に不自然に見られちゃう。
ものすごく恥ずかしいのに、どこも隠せない。
目の前の男の子が、わたしの胸をジッと見つめている。
わたしは、恐る恐る下をうつむいた。
そして、ピンクの生地に浮かび上がる、胸の恥ずかしい突起を確認する。
ブラを取り上げられたから……
タンクトップの生地が薄いから……
それは、胸のふくらみの中央で、小さなボタンのように浮いていた。
有里の……乳首……
よく見ると、前列の子みんなの視線が、わたしのオッパイに……?!
いやぁっ、見ないでよ……お願いだから、見ないで……
顔が発火するくらい熱くて……
消えて無くなりたいくらい恥ずかしくて……
わたし、先生の前でうつむいたまま、何も言えなかった。
こんな、男を誘うような格好をして……
おまけにノーブラで、乳首を浮かび上がらせて……
こんな姿、お父さんや、お母さんが見たらどう思うかな?
わたし、早野家の娘に生まれなければ良かった。
……いけない。また貧血かも……
……気分が悪い。
目の前が……暗い……
身体が……ふらついている……
「おい、早野……大丈夫か?」
教室がざわついて、先生の慌てた声が聞こえる。
ごめんなさい先生。
そして、みんな……
大切な授業をわたしのせいで、混乱させてしまって……
でも、今のわたしには、どうすることも出来ないの……許して……
「先生。わたしが、早野さんを医務室まで連れていきますッ!」
廊下側の席から、凛とした女子生徒の声が聞こえて、わたしを支えるようにして、教室の外まで連れ出してくれた。
「大丈夫? 有里……」
どこかで聞いたような声……
ものすごく、懐かしい声……
それなのに、顔を上げたくないのは……なぜ?
目をひらきたくないのは……なぜ?
きっと……貧血のせいだよね……
シンと静まり返った廊下に、弱々しい足音と、それを必死で支える健気な足音が重なり合って響いている。
私の耳に届く、荒い呼吸……
力を失ったわたしの身体が感じる、少女のおぼつかない足取り……
それでも、わたしの肩を担ぐようにして、懸命に歩いている。
わたしは、わたしより小柄な女の子に身体を預けながら考えてた。
この1カ月……わたしはたったひとりで走っていた。
辛いことも、悲しいことも、ひとりで背負うものだと思っていた。
誰かのために犠牲になる。
これって、映画のヒーローみたいで格好いいよね。
…… ……?!
……ううん、なにか違う……
わたしは、勝手にひとりで走って、勝手にひとりで立ちすくんでいたんだ。
…… ……
ちょっとだけ考えた。
本当に必要なのは、自分を信じる強い心と、決して独りよがりの孤独なヒーローにならないこと……
そして、わたしの周りには、本気で支えてくれる仲間がいることも……
わたし……間違えていたかもしれない。
それなら……?!
身体が勝手に、引きずられていた足に力を込めていく。
わたしも、歩かなきゃ!
それで、ダメなら支えてもらおう。
「有里、無理をしてはダメ……」
わたしは、目を閉じたまま、ゆっくりと口をひらいた。
「舞衣こそ、大丈夫なの……? わたし……結構重いよ」
少女の身体が、ぐらっと揺れた。
そして、涙の混じった声で、わたしの名前を呼んだ。
「有里……」
わたしは、まぶたをひらいた。
そこには、おでこにいっぱいの汗を浮かべながら微笑む少女がいた。
ううん、わたしの親友、舞衣がいた。
わたしは、彼女の耳元でささやいた。
「ふたりで、校庭に行かない?」
八月 二十二日 金曜日 午前十一時 副島 徹也
「麗しい友の愛……ですか。
略して友愛では、どこかの政治家のようで面白くありませんが、いいものを見せてもらいました」
校庭の端にある木陰のベンチで、ふたりの美少女が談笑している。
私は、遠く離れた校舎の陰で、ふたりの様子を覗き見しながら、計画の進行状況と修正点の検証を行っていた。
もちろん、頭の中でと言いたいところですが、資料がいっぱい詰まった手帳は手放せませんね。
有里への仕込みは、これまで通りジワジワと行うとして……
問題は吉竹舞衣の方ですね。
あの娘をどうやって、追い込むか……
性格は、やや内向的。
高校時代は、文芸部。
趣味も読書。
……それも西洋文学ですか。
あの、運動大好き娘とは正反対ですね。
結構、お堅そうな感じがします。
私は、手帳に記された吉竹舞衣の資料をもう一度チェックしてみる。
そして、今、有里と熱心に話しこんでいる舞衣の表情……
教室からここまで有里を支えて来た舞衣の行動力……
それを、資料と重ね合わせて……
ククククッ……この娘……
面白いかもしれませんね。
私が思っている以上に、芯が強そうです。
私、腹の中から湧きおこる貪欲なまでの自分の性に、うち震えるくらい気持ちを高ぶらせていた。
次々と脳裏に浮かぶ、ふたりに対する性的な責め。
早く、あのふたりが手を取り合って泣き叫ぶ姿を、拝見したいものですね。
そのためにも、あのふたりが今、何を話しているかですね。
こんなことなら、つまらない盗撮カメラよりも、有里に盗聴器具でも忍ばせておくべきでした。
まあ、有里の性格を考えれば、これまでの経緯を洗いざらい舞衣に話すとは思えませんが、これ以上ふたりを接触させておくのは、危険かもしれません。
当面は、ふたりを引き離した上で、個別に行為に及ぶ方が得策でしょう。
そうと決まれば、早速舞衣に会う必要があります。
今日の昼からでも接触しましょうか。
それと……今思い出しましたが、私の盗撮ホールペンは無事でしょうね。
私は、ポケットに収めた有里のブラジャーを握り締めながら、ベンチに座るふたり連れをじっと見つめていた。
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