(三十四)
八月 二十二日 金曜日 午後一時三十分 吉竹 舞衣 ♪♪……♪♪……♪♪……♪♪……
何か月ぶりだろう。心がこんなに軽く感じるのは……
わたしは、鼻歌でも歌いたくなる気持ちを我慢しながら、駅へ向かって歩いていた。
有里がわたしに話をしてくれた。
昔の友人の顔で話かけてくれた。
体調の悪い有里の身体を必死で支えて、手足には疲労が溜まっているはずなのに、今はなにも感じない。
それどころか、疲労感さえ心地よい。
確かに、これで全てが解決したわけではない。
有里のお父さんの病気……
わたしの父のこと……
そして、わたしと有里の間にも、まだまだ、わだかまりは残っていることも……
これからも、わたしは有里と有里の家族には贖罪を続けなければならない。
でも、今日だけは忘れさせて欲しい。
せめて、神様がプレゼントしてくれた、この一瞬だけでも……
「吉竹……舞衣さんですね……」
駅の改札口を抜けて、駅前の広場に出たところで、わたしは、見知らぬ男性に呼び止められた。
誰だろう?
わたしは、この人を知らないのに、彼はわたしの名前を呼んだ。
それにしても、背の高い人……
スラッとしているけど、180センチくらいはありそう。
ただ……遊び慣れている感じがして、わたしはこういうタイプの人は苦手かな。
わたしは、警戒するような顔で返事をした。
「はい……そうですけど……
なにか……ご用ですか?!」
意識してないのに、語尾が強くなっている。
わたしの幸せな時間の邪魔をしないで欲しい。
でも、この心情が言葉の端に出たのかもしれない。
「少しお話がしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「いえ、わたしは興味ありませんので……」
やっぱり、いかがわしい仕事のスカウトみたい。
わたしは、男性から視線を外すと、足早に歩き始めた。
「早野有里さん。ご存知ですよねぇ?」
背後から投げ掛けられた言葉に、両足が止まる。
歩道の上で、わたしは立ち止まっていた。
「有里が……どうしたの?」
振り返ったわたしは、男性を見上げた。
ゾクッとするような冷たい光が、両目から漂っている。
脳裏に、今朝の有里の服装が映し出される。
あの子、まさかこんな男と……
「ここでは、なんですので……」
彼は、路地の奥に見えている喫茶店の看板を指差した。
……嫌な予感がする。
あそこに行けば、久々に訪れた幸せな時間を消失することになる。
有里にとっても、わたしにとっても……
それでも、男の口から彼女の名前が出た以上、ここは付いていくしかなさそう。
わたしは、男の案内の元、喫茶店の扉をひらいた。
チリン、チリン……
客を知らせる呼び鈴が鳴っても、カウンターの中にいる店のマスターは、こっちを見向きもしない。
わたしと背の高い男は、店の奥にあるテーブル席に、向かい合うように座った。
昼下がりの時間帯と路地の奥にある立地条件のせいか、店内の客はわたしと彼を含めて4人ほど……
閑散とした店内に流れる優雅なクラシックの曲と、ほどよい空調。
それでも、胸の不安を解消する手助けには、到底及ばない。
しばらくすると、年配のウエイトレスが、お水をトレーにのせて、注文を取りに来た。
「私はホットを、えーっと、きみは?」
わたしは、少し迷って紅茶を注文する。
年配のウエイトレスは、機械的な笑顔を浮かべながら、オーダーを復唱すると、マスターの元へ再び戻って行った。
「あの、お話って……」
わたしは、周囲に人の視線がないのを見計らって、口をひらいた。
それでも、緊張のせいか、声帯が震えて、声が上ずっている。
結局、必要最低限の単語を選んで話すと、わたしは、男の言葉を待った。
「まずは、これを見てもらえますかぁ……?」
男はそう言うと、テーブルの上にタブレット端末を置き、電源を入れた。
そして、指先を液晶画面に何回かタッチさと、なにかの動画が再生させた。
どこかの応接室だろうか?
皮張りのソファーにガラスの机、それに木製のキャビネット。
これだけでは、意味がわからないと思ったのか、男の指先が再度画面に触れた。
映像が早送りされる。
単調な静止画は突然流れ始め、画面の中に1組の男女が登場した。
「そ、そんな……?!」
わたしの呼吸は止まり、心臓は凍りついた。
そして今、音がない映像の中で、その男女が裸で絡み合っている。
男の顔は、今、わたしの前に平然と座っている人……
女の顔は……
「有里……!!」
わたしは、画面を凝視し続けた。
男女のこんな姿を見るのは初めてだった。
……ショックだった。
それも、わたしの大切な友人がこんなことをしているなんて……
画面の中では、足を大きくひらいた有里の下半身に、男が腰を打ち付けている。
何度も何度も……
でも、わたしにはすぐにわかった。
この行為に愛がないことを……
有里は泣いていた。
涙を流しながら叫んでいた。
声を聞かなくてもわかる。
あの、元気で明るくて心優しい有里が、泣かされている!
「もう、いいです。……止めて下さいッ!」
自分でも、ゾクッとする殺気だった声を出して、わたしは、有里を泣かせた男を睨みつけた。
「あなた、有里になんてことを……」
こんな惨い映像を見せながら、薄い笑みを浮かべたまま男に、わたしは人ではない何かを感じた。
そう、この男は悪魔だと……
「お待たせしました。コーヒーと紅茶になります」
そんな淫靡で静寂な空間を、さっきのウエイトレスがかき乱した。
咄嗟に、液晶画面に目を走らせる。
……良かった、消されている。
ウエイトレスが去ったあと、平然とコーヒーを口にする男に、わたしは湧き上がる怒りを必死で堪えながら、詰問した。
「どうして、有里がこんなことを……
教えてッ、どういうことなの……?」
「ええ、舞衣さんにもよくわかるように、詳しく話してあげますよぉ。
ただし、ショック死しないで下さいねぇ。
ククククッ……」
男の顔が、醜い笑顔に歪んだ。
1時間後、わたしは覇気のない足取りで、自宅へと向かっていた。
もし、同じ人が駅を出た頃のわたしと、今のわたしに会ったとすれば、別人と思うかもしれない。
「明日午後8時に総合病院まで……か」
あの男、副島と名乗っていたけど、わたしに有里の手助けをするように持ち掛けてきた。
そう、エッチのこと……
その覚悟があるなら、指定した時間に来るようにと……
そして、この話は決して誰にもしゃべるなと……
当然、有里にも……
あの後、副島からは、言葉通り死にそうなくらいショックな話をたくさん聞かされた。
有里のお父さんの病状のこと……
そのせいで、有里が奴隷みたいな契約をさせられたこと……
そして、行為という名の元で、数々の恥辱にさらされたこと……
行為ひとつひとつの、耳を塞ぎたくなるような詳細な内容まで……
今日の有里の過激な服装にも、これで納得がいく。
あの子、ブラジャーまで取り上げられて……
恥ずかしくて、辛かったでしょうね。
でも、どうして何も言ってくれないのよ。
有里のバカッ……あなたは大バカよ……
ひとりで、何でも背負いこんで……
あなたは昔からそうだった。
でもね、今度のことは全てわたしの責任。
有里はなにも悪くないよ。
だから、わたしが…舞衣がこの身体で、有里を守ってあげるからね。
八月 二十二日 金曜日 午後四時 水上 千里
「早野さん、検温の時間ですよ」
私は、そっと扉をひらいて病室に入った。
あらっ、今日は有里も一緒のようね。
ベッド脇の丸椅子に腰かけているのは、毎日のように御主人のお見舞に訪れるこの人の奥さん。
そして、有里の方は、私に軽く会釈をすると、恥じらうようなしぐさを見せて顔を背けた。
まだ、昨日のわだかまりが残っているのかしら……
もっと、さばさばした感じの子だと思ったんだけどな……
それとも……?
私は、沈んだ表情で窓の外を眺めている有里に、ある疑念を抱いていた。
そういえば、この前の夜も……
そう、私と初めて会ったときのこと……
一体、あの応接室で、あの子、ううん、有里はなにをしていたのかしら?
確かあのときの彼女も、今と同じ哀しい顔をしていた。
……なんか歯がゆいわね。
悩み事があるなら、相談に乗るのに……
ねえ、そこにいるあなたも、そう思うでしょ。
今さら隠れたって無駄よ。
さっきからそこにいるのは、気付いていたんだから。
それよりも私、彼女のことが心配なのよ。
この後、あなたの手を借りることになるかもしれないから、私の情報を教えてあげる。
まあ、独り言だと思って付き合ってね。
私はあの夜のことを、少し思い出していた。
……あれは、確か午後7時過ぎだったかな。
ナース室で作業をしていた私に、副島という人から指示があったのは……
私はこの病院に来て間がないから、詳しくはわからないけど、同僚のナースによると、どうやらこの副島という人、この病院の臨時役員をしているらしいの。
それも、医師免許はおろか、医療資格さえ持っていないって噂のある人……
いつも、スーツ姿で院内をブラブラしていて、あの応接室を自分の事務所代わりに使っているって同僚の彼女、興味津津って顔で教えてくれたわ。
でも、これっておかしいわね。
私もナースになってまだ3年だから、例外もあるかもしれないけど、普通、病院の経営陣に医師以外の人が携わるというのは、聞いたことがないから。
あっ、話がまた脇に飛んでいきそうね。
元に戻すわね。
それで、副島さんからの指示によると、午後8時半過ぎに早野有里という少女が、夜間受け付けに来るだろうから、例の応接室まで案内を頼むと……
用件の方は、2時間程で終わるだろうから、その時はまた頼むって……
あの時は、驚いたわ。
早野って苗字で、まさか、あの人の娘さんって思って、同僚に聞いてみたら、やっぱりそうみたいだから。
それに副島さん、気になることを言っていたわ。
有里を案内している間、絶対に話しかけるな。
また、用件が終わるまであの部屋には近づくなって……
どう考えても変でしょう。
おまけに彼女……
来たときも、あまり元気がなかったけど、帰りは、もっと深刻そうに思い詰めた表情をしていたわ。
それに顔が真っ赤で、歩き方までぎこちなくて……
妙に小股で、私がゆっくりめに歩いても、ついてくるのが精いっぱいって感じ……
それと、髪が濡れていたけど、シャワーでも浴びていたのかしら?
私には有里が、あの部屋で酷い目に会っている気がするんだけど、あなた、どう思う?
もしそうだとしたら、許せないよね。
まあ、これは私の思い過ごしかもしれないけど、これからも有里のことは見守ってあげた方がいいと思うの。
あの子のことは、小さい頃からよく知っているしね。
さあ、検温も終わったし、体温の以上もなしと……
私は、ふたりに悟られないようにしながら、ベッドに横たわる彼に心の中で話しかけた。
おじさんは、私のこと覚えている?
今は、水上千里って名乗っているけど、8年前、おじさんの家の近所にいた頃は、横沢って苗字だったの、思い出した?
……ううん。無理よね。
おじさんは、仕事が忙しそうで、私に会ったのも数えるほどだったからね。
でもね、私や近所の子供たちと暇があれば遊んでくれて……
私、お父さんがいなかったから、嬉しかったな。
そのときだけは、私のお父さんのような気がして……
あっ、これは有里には内緒ね。
こんなことを彼女が知ったら、悲しむかもしれないから。
おじさんも、早く病気が治るといいわね。
私も、一生懸命看護するつもりだから、おじさんも、がんばってよ。
じゃあ、またね。
……おじさん。
さてと……
私、もう行くけど、あなたも付いて来なさいよ。
どうせここにいても、することなんてないんでしょ。
あんまり暇そうに見えるから、今晩付き合ってあげる。
……別にあなたと食事ってわけじゃないわよ。
私、ある人と会うことになっているから同席して欲しいの。
やっぱり、ひとりじゃ心細くて……
お願いね……♪♪
私は、静かに扉を閉めると病室を後にした。
それにしても、有里のミニスカート姿、可愛かったな。
ちょっと露出気味だけど、スカートからはみ出した太ももには、はち切れそうな若さを感じるもの。
まだ、18歳か……
若いっていいよね。
まあ、そういう私も、まだ21だけどね。
一度、ショーツが見えそうなくらいのミニスカートでも、履いてみようかな。
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