(三十五)
八月 二十二日 金曜日 午後九時 水上 千里 「失礼します。
松山先生、おられますか? ……水上です」
私はナース服姿で、松山先生の診察室を訪れた。
服装は、最後まで迷っていた。
制服で行くべきか……?
勤務時間がかなり前に終わっているので、ラフな私服にすべきか……?
ツマラナイ問題に思うかもしれないけど、この前の松山先生の口ぶりは、私にただならぬ警戒感を与えていた。
そして、私が選んだのは制服だった。
私の心は、医師としての松山先生を信じていたのかもしれない。
時刻は午後9時過ぎ。
本来なら、アパートの自分の部屋で、缶ビール片手にテレビドラマでも見ている時間。
でも今晩は、私にとって大変なことが起きそうな気がする。
気を引き締めても、無理なものはあるけど、やらないよりはマシ。
私は、大きく息を吸い込むと、診察室の奥にある先生のデスクに向かった。
「約束通りに来てくれましたね。
まあ、そこに座りなさい」
先生は、患者用の丸椅子に私を促した。
こうしてみると、夜の診察室って不気味ね。
天井の明りは全部落ちているし、室内を薄明かりに包んでいるのは、ドアの上に設置された非常灯の光。
先生の顔がデスクのライトに照らされて、まるで……やっぱり失礼だからやめておく。
「コーヒーでも飲みますか?」
「いえ、結構です。
それより……あの、大切な話というのは……」
「ああ、そのことね」
先生は素っ気なくそう言うと、デスクの引き出しから数枚の写真を取り出し、トランプのカードのように並べた。
「君。こういうのに興味はありますか?」
「……えっ?……!!」
デスクの光が反射して……?
……?!!……!
「ひぃッ! これって……先生っ! 一体なんのまねですッ!
こんな卑猥な写真を並べて……
こう言うの……セクハラじゃないですか!」
目に飛び込んできたのは、淫らな女性の写真。
ビルの屋上でスカートを捲り上げている人……
交差点の真ん中で、胸をさらけだしている人……
大勢の男たちの前で、自分を慰めている人……
それなのに、この女の人たち、恍惚の笑みを浮かべている。
まさか、この先生。こんな恥ずかしい写真を見せるために、私を呼んだっていうの……
冗談じゃない。私を馬鹿にしないでよ。
「どうです水上君。やってみる気はないですか?」
「いい加減にして下さいッ!!
私は大切な話があるっていうから、ここに来たんです。
それが……こんなふざけたことって……
私、仕事と遊びの区別のつかない人って大嫌いなんです。
申し訳ありませんが、失礼させてもらいますッ!」
あーあ。お手当に釣られて、こんな病院に来るんじゃなかった。
やっぱりこの先生……
初めて会ったときから、目付きがアヤシカッタけど、まさかこんな趣味があったなんて……
「待ちなさい。話はまだ終わっていませんよ。
この前君に合わせたい人がいると言ったのを、もう、お忘れですか?
クックックックッ……
この人の顔を見れば、きっと水上君の気持ちも動くと思いますよ。
……さあ、座って、座って」
先生は、両手で私をなだめると、コーヒーをすすった。
こんな屈辱を味わったのは、何年ぶりかしら。
もう少しで、なにもかも忘れるところだった。
でもここで、頭に血が昇ったら私の負けよね。
我慢、我慢よ、千里。
「さあ、入ってきなさい。
懐かしい人が待っていますよ」
先生は、二ヤリと意地悪そうな笑みを浮かべると、診察室に隣接する処置室に向かって、声を掛けた。
ガチャッ!
ドアノブを回す小さな音が反響する中、大柄な男性が私の前に姿を現した。
天井の照明がほとんど落とされ、非常灯の明かりにボーっと照らし出された、その顔は……?!
「お兄ちゃん……?!」
先生の言った通り懐かしい顔。
私のたったひとりの兄、良一兄さん。
でも、どうしてここにお兄ちゃんが……
私のお兄ちゃんは……お兄ちゃんは……
「そう、君のお兄さんは、一度死んだ。
いや、死んだことになっている」
私は、兄の元へ歩み寄ろうとした。
でも、足が……足が震えて……立ち上がれない!
私は、もう一度叫んだ。(お兄ちゃん)って……
…… ……
…… ……
でも、私の耳にも、私の声は聞こえなかった。
喉も……震えている。
私は、首だけ僅かに動かして、兄の姿を見つめた。
そして、動かない唇で自分につぶやいた。
「夢じゃないよね……夢なら覚めないで……」
身体が強張った私を尻目に、先生は椅子から立ち上がると、兄の肩に手を置いた。
どうしたの? お兄ちゃん。
私、ここにいるんだよ。
私だよ、お兄ちゃんの妹の千里だよ。
お兄ちゃん、なにか言ってよ。
私の名前を呼んでよ。
「無駄ですよ。水上、いいえ千里さん。
君のお兄さんは、確かに生きている。
しかし、生きているだけなんですよ。
君がどんなに話しかけようが、手を握ろうが、ここに立っているのは、昔の良一君ではない。
彼は、私たちの言うことだけを忠実に聞く、ロボットみたいな物なんですよ」
嘘! お兄ちゃんが私のことを忘れるなんて、そんなの嘘に決まっている。
あの優しかったお兄ちゃんが、私のことを覚えていないなんて……そんな……そんなことって……
「千里さんも、覚えているでしょう。今から3年前のことを……」
3年前……?!
そう、今でもはっきりと覚えている。
私はあの当時、念願のナースになれて充実した毎日を送っていた。
慣れない環境、意地悪な先輩もいたけど、夢が叶ったのだから頑張らなければ罰が当たると思って一生懸命がんばっていた。
早く一人前のナースになるんだ。
そして私、お兄ちゃんと……
そんなある夏の日の午後……
あの日も今日と同じで、残暑の厳しい1日だった。
突然、1本の電話が私あてに掛ってきた。
……母からだった。
その声は、か細くて、嗚咽まじりで聞き取りにくかった。
それでも、話の重大さは私にもすぐに理解出来た。
そして、茫然とした。
お兄ちゃんが……死んだ……
兄は、苦労して医科大学を卒業した後、地元の総合病院で研修医として働いていた。
その兄が、勤めていた病院の屋上から突然、身を投げた。
私と母は、兄が待つ病院へ急いだ。
なぜ、兄が死を選んだのか、理由がわからない。
母も同じだった。
そんな茫然自失の私たちを出迎えてくれたのは、兄の同僚医師と上司である病院の外科部長だった。
兄の上司である先生は、淡々と経過報告をした後、私たちに意外なことを告げた。
「水上良一君は、当病院において献体を望んでいた」
つまり、死後の自分の身体は医療技術確保のために、人体解剖に供するということ。
更に、葬儀その他のことは、この病院主導で執り行い、結局、兄にも合わせてもらえなかった。
あきらめがつかず、抗議する私に突き付けられたのは、兄直筆の署名がある誓約書だった。
確かに、兄の字だった。
私と母は、ふたりきりで兄の遺影に手を合わせて、兄を見送った。
寂しくて、納得がいかない葬儀だった。
その死んだはずの兄が、私の目の前に立っている。
「その後のことは、私から説明しましょう」
松山先生は、再び椅子に腰かけると私の顔を見た。
「実は、水上君の投身自殺は、君たち親子を欺くためのお芝居だったんですよ」
「お芝居って……どうして、兄がそんなことを……」
「当時、水上君は医療上大きなミスを犯していてね。
訴訟騒ぎが起きていたんだ。
焦った彼は、自分の上司に泣きついて、なんとか穏便に運んでもらえるよう頭を下げた。
だが、問題の根は想像以上に深くてね、上司の一存でなんとかなるレベルを超えていたんだ。
このまま、事が大きくなれば、彼の医師免許どころか、この病院さえ危うくなる。
当時、その病院に私も勤めていたからよく覚えているよ。
あの時は、私も失業かと思ったからね。
だが、病院は存続できた。
あるお方が、救いの手を差し伸べて下さったお陰でね。
その方の解決方法は、実に素晴らしいものだった。
まず、訴訟を起こさせないために、水上君は自殺したことにして死亡届を提出させる。
そして、君たち家族を欺くために、献体という手を使った。
もちろん、署名は水上君が自ら書いた。
いやあ、うまくいきましたよ。
結局、訴訟は起こされず、病院も無事だったんだからね。
後は、あの方の条件に従うだけ……」
「その方の条件って……?」
私は、松山医師の説明を聞きながら、信じられない思いだった。
正義感の強い兄が、職場でこんな卑劣な行動をとったなんて……
でも……それ以上に心配なことがある。
兄は、どうなったの?
「それが、我々にとってはあまりにも意外な条件だった。
水上君をその方の会社で社員として雇いたいと言うんだからね。
彼は、戸籍上死んだことになっている。
このまま、病院にいてもらっても困る人材だったから、こちらとしても好都合だった。
あとは、苗字が水上では、あちらさんも嫌がるだろうから、取り敢えず父方の旧姓である横沢を名乗らせることにした」
「それでは、兄の名は、横沢良一?」
「そう。確か君も……以前は、横沢姓を名乗っていたんだってね」
男は、いつの間に取り出したのか、私のスナップ写真が何枚も貼られたファイルをひらいていた。
私の職場でのナース服姿、ラフな私服でアパートでくつろいでいる姿。
いったいいつ撮られたのか?
きっと、盗撮されてたんだ。
……だとすると、この男の狙いって……?!
脇を引き締めた私に、松山医師は下卑た笑みを投げ掛けながら、話を続けた。
「苗字を変更し、うまく君たち親族をだましたものの、まだひとつだけ、良一君には施さないといけないことがあってね」
「兄を、兄になにをしたんです!」
私は、感情を失い人形のような兄の姿に、不吉なものを感じて思わず声を荒げていた。
それなのに、お兄ちゃんは表情ひとつ変えてくれない。
「そんな、大それたことはしていませんよ。
ただ、水上君の精神をイジッテあげたんです。
要するに、マインドコントロールです」
「そんなことが……?!」
「ええ、可能です。
水上君には、特に強力なものを施していますから、ほとんど私たちの言いなりでしょうね。
どうやらその方は、言いなりになった水上君を使って、法律違反すれすれの仕事をさせていたのではないでしょうか。
……というより、犯罪行為をさせていたかもしれませんね。
何といっても、彼は、もはや人間ではありませんから……」
「ひどいッ!……あなたの方こそ、人間じゃない。
私の兄を……お兄ちゃんを返してよッ! この人でなしッ!!」
私は、兄の元に駆け寄った。
そして、手を取る。
「さあ、お兄ちゃん。帰ろう。
今まで、辛かったでしょう。ごめんね。
千里、なにも知らなかったの……
ねえ、お兄ちゃん!?
なにか……言ってよ!」
「だから無駄だと言ったんです。
残念ながら、君の言葉には反応しません。
…… ……
仕方ありません。そこで見てなさい」
そう言うと、松山先生は兄の顔を見つめて、ひと言命令を掛けた。
「自分の首を絞めなさい!」
お兄ちゃんは顔の表情を変えることなく、両腕で自分の首を掴むと、指先に力を込めた。
う、嘘でしょ。
自分で自分の首を締めるなんて……?!
でも、そんなことって……!
「くぐっ……うぐっ……ぐっ……ぐぅぅッ……」
喉から断末魔みたいな呻き声が漏れる。
顔が、死人のように青ざめていく!
お兄ちゃんが……お兄ちゃんが、このままでは、死んでしまう!!
「止めてぇッ! 止めさせて下さい! お願い……お願いします……」
涙ながらに懇願していた。
ナースキャップが振り落とされるほどの勢いで、頭を振っていた。
さっきまでと態度が違ったって、そんなのどうでもいいじゃない。
せっかく会えたのに……
それなのに……
たったひとりのお兄ちゃんを、こんな形で失うわけにはいかなかった。
「先生、ごめんなさいっ! 失礼なことを言って……本当にごめんなさいッ!
だから……兄を、早く……兄を助けてぇッ!!
早くして……死んじゃう!!」
気が付けば、土下座までしていた。
冷たくて無機質な床の上に、おでこをこすりつけて、喚くように謝っていた。
そうしたら、声が空から降って来た。
「わかれば、いいんですよ。わかれば……
これで、私に逆らえばどうなるか、理解できましたか?
ついでに、千里さん。
あなたの身の振り方も、考えておいてくださいよ」
先生は、兄に向って再び命令を掛けた。
「止めなさい!」
兄の両手が動きを止める。
役目を終えて下に降りて行く。
血の気を失った死人の肌に、わずかなから赤みが差した。
「よかった……」
私は、床にひれ伏したまま涙を流していた。
人前で泣くなって、誰かに言われたことがある。
でも、我慢出来なかった。
これは、うれし涙なの?
それとも、悔し涙?
ううん、いろんなのが入り混じった、ものすごく塩辛い涙。
だったら、泣いてもいいよね。
だって、目がしみて辛いんだから……
「それでは、千里さん。
もう一度聞きますよ。
あなたも、こういうことに興味がありますよね?」
男の尊大な声が、また空から降って来た。
床にうずくまった私の前で、先生は椅子に仰け反るように座って、まるでどこかの国の指導者みたい。
そして、声を追いかけるように、数枚の写真がヒラヒラと舞った。
私は、床に散った写真を全て回収し、男の前に進み出た。
そして、小さくうなづいた。
手に持った写真は、最早、見る必要はないと思う。
「ほーぉ。千里さんは、人前で肌をさらすのが大好きな変態だと、認めますね?」
私は、感情のないロボットのように、もう一度うなづいた。
尊大な声に、侮蔑的な言葉。
しかし、心がマヒしかかっている私には関係ない。
……仕方ないでしょ。
わずか、10分ほどの間に、今まで生きてきた中で経験したことがないような、ショックの連続だったんだから。
でもね、心の片隅に追いやった理性が薄々感づいている。
おぼろげながら、私の首に鎖が巻き付いたことを……
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