(三十九)
八月 二十二日 金曜日 午後十時 水上 千里 「失礼します」
私は、普段通りのナースの顔を取り戻して、診察室の扉を閉めた。
「あーぁ、やってられないな」
薄暗くて寒々しい廊下に、空しいつぶやきが吸い込まれていく。
これから、寮に戻ってバタンキューって感じで、明日は昼勤に夜勤付き。
こんな精神状態で、私、満足に働けるかな……
まあ、私には選択肢が残っていないんだから、ひらき直るしかないよね。
コツ、コツ、コツ……
靴音に人影が動いた。
やあ、あなた。ここで待っていてくれたの?
私は、廊下の片隅で、暇そうに壁に寄り掛かっている人物に話し掛けた。
てっきり、同席してくれると思っていたのになぁ。
振り向けば、あなたはいないんだもん。
私、心細かったんだよ。
あなたって……結構、臆病なんじゃないの?
それとも、私の家族との涙の対面に配慮してくれた?
後の気持ちなら、素直に感謝だね。
なに? 話の内容を聞きたいって……
……白々しい。
あなた、聞き耳立てていたでしょう。
私、気が付いていたんだからね。
でも、途中で寝てたって?
……あなたね、よくあの展開で、そんな行動がとれるわね。
めちゃくちゃ、サスペンス級にシリアスだったんだよ。
ホント、あなたの言ってることって全然信じられないけど……
でもね、私も誰かに聞いて欲しい気分なんだ。
いいわ、話してあげる。
で、どこから話せばいいの?
私があの男に屈したところから?
……あなた、肝心なところはしっかりと起きていたのね。
ちゃっかりしてるじゃない。
……じゃあ、話すわよ。
私が、屈辱的な言葉にうなづかされた後、先生はもう一度、私を席に促したの。
そして、具体的な説明に入ったわ。
まずは、兄をこんな姿にして、今でも社員という名目で奴隷のように扱う憎い人。
名前は、時田謙一。
そう、あの時田金融グループの総帥ってやつよね。
この地域……ううん、今では、全国に名を響かせた、泣く子も黙る強大な権力を持った男。
今すぐ殺したいくらい憎いのに、私ひとりではちょっと無理よね。
警察に相談しても無駄だろうし、おまけに、兄を人質に取られていては……
そして、松山の話を聞いているうちに、大きな勘違いに気が付いたの。
私の身体を本当に欲しがっているのは、松山ではなく、時田だってことに……
正確には、私に恥ずかしいことをさせて、その映像を時田に差し出す。
あいつは、それを自分のコレクションとして鑑賞する。
どう、素晴らしいくらい崇高な趣味でしょう。
聞いてて、吐きそうになったもの。
おまけに、こういう事をやらされているのは、私だけじゃないみたい。
私より若い未成年の子も、ターゲットにされているらしいのよ。
その女の子も可哀そうにね。
本当に許せないよね。
そして、とうとう私もそのコレクションの仲間入り。
ちょっと自慢でもしようかしら。
なんでも、松山の話だと、余程の美少女でなければ選ばれないって言うから……
私、21だけどまだまだ美少女ってことだよね……
嬉しすぎて、また涙が出てきちゃった。
ごめんね、泣いてばかりで……
えーっと、私の今後の立場についても話していたわ。
ずばり、看護婦でありながら性奴隷を兼務すること。
……これって、いけない小説の題名みたいだね。
でも、実際そうみたい。
看護婦としての仕事を続けながらも、いついかなる時でも、松山の命令には絶対服従のこと。
それが、守られない場合は、兄の命……それ以上は、ちょっとね。
随分と達観したように話すって?
……まあね。
もう、クヨクヨしても始まらないからね。
私って、結構、前向きの性格なんだよ。
それにお兄ちゃんが生きていることも分かったからね。
憎い敵の前で肌を晒すのは、死ぬほど辛いけど、なんとか頑張ってみるね。
あなたも、直接見なくていいから、陰ながらに応援してよね。
私は、更衣室で私服に着替えると、病院の職員専用出入り口に向かった。
夜勤でもないのに、こんな遅い時間に病院を後にする私を見たら、守衛さん、なんて思うだろう?
素直に残業をしていたってことで、スルーしてくれないかな。
そんな、どうでもいいことで、沈む心をごまかしながら、私は足早に無人の廊下を歩いていた。
あらっ?
何を見るでもない視界の端は、丁度、角を曲がろうとする女性の姿を捉えた。
あの後ろ姿は、有里さん……?
暗くて自信はないけど、夕方に会った彼女の服装と良く似ていたから……
太ももの上の方まで露出した大胆なミニスカートは、結構記憶に残っていたから、多分……
この前もそうだったけど、彼女ここで何をしているのかしら?
とても、嫌な気がするんだけど……
どうしよう? 追い掛けようかしら?
今なら、追い付くと思うから……
…… ……
……ごめんなさい、有里。
私も今日は精神的に参っているの……
今は、あなたの力にはなれそうにない。
本当にごめんなさいね。
私が試練に打ち勝つことが出来れば、すぐに有里を救い出してあげるから、それまで待ってて……
辛いでしょうけど、お願い。
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