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謎の男と舞衣 有里の苦悩























(五)


七月 二十五日 金曜日 午後九時  早野 有里
  


        「♪♪……2番ホームに下り○○行き、快速電車が入ります……」

        駅のホームにアナウンスが響き、銀色の車体が金属をこするブレーキ音
        を立てて滑り込んでくる。
        わたしは列の後方からガラス越しの車内を覗いてみた。

        ……まあ、いつもと同じかな。

        程程の込み具合を確認しながら、前の乗客と隙間を開けずに車内に入る。

        いつもの時間に、いつもの電車……
        それに、いつもの場所はと……空いてる。

        ホーム側から入って向かい側の扉横のスペースが、わたしのお気に入り
        の場所。
        目的地までの約30分間、線路側にあたるこの扉がひらくことはない。

        ……つまり、ここは私だけの快適な空間ってこと。
        もちろん座席はないけどね……

        ほんのわずかな時間に多くの乗降客を入れ替え、エアー音を鳴らしなが
        ら扉が締まる。
        そして電車は、低いモーター音を響かせながらゆっくりと滑るように動
        き出した。

        わたしは車内が落ち着くのを待ってから、バッグに入れてあるヘッドフ
        ォンを取り出しお気に入りの曲を聴き始めた。
        身体を壁に預けて瞳を閉じ、誰にも邪魔されずに好きな音楽を聴く。

        そう。わたしにとって一番リラックス出来るのはこの時間だったりする。
        なんだかんだ言っても最近の生活リズムって、結構ストレスが溜まるの
        よね。

        ……ちょっと、きみ。
        その目は何よぉっ。
        能天気なわたしにストレスが存在するのかって……?!

        ……バカにしないでよ。
        こう見えても心配事だらけなんだから……

        朝のご飯はお代わりすればよかったとか……
        お昼は何を食べようとか……
        夕食のおかずはなにかなとか……後は、えーっと……?

        もう、なにを言わせるのよ……!



        今、どのあたりかな……?

        わたしはヘッドフォンを付けたまま、ガラス窓の外を勢いよく流れる景
        色を追った。

        駅を出発して20分位経ったかな。ちょうど車両は隣町との境界を流れ
        る川を渡るところだった。
        鉄橋を通過しているのか、線路に響く車輪の音が大きく反響している。

        ここを越えれば、後10分位で次の駅に到着する。
        もうすぐリラックスタイムともお別れね。

        わたしは窓から目をそらすと何気なく車内を見渡した。

        ……んっ……?
        ……何か、感じる……視線……?
        ……誰かがこっちを見ている気がする。

        もう一度、今度は慎重に視線の主を探ってみる。

        …… ……
        …… ……!
        ……いた! あの人だ……!

        わたしから5メートルくらい離れた場所で、吊革にぶら下がっている。
        最初は偶然かなと思ったけど、いつまでも目をそらす気配がない。

        ここは景色でも眺める振りをしながら、確認するしか方法はなさそうね。
        黒目だけを横にスライドさせて、視野の端に再度、主を捉える。

        ……?
        全く見覚えがない。誰なの……?
        ……まさか、女の子の敵……痴漢?

        それにしては距離が離れすぎている。

        ……もしかして美少女のわたしに好意を持っているとか……?
        まあ、それは充分に考えられるけど……

        どっちにしても、知らない人から一方的に視線を投げ掛けられるのって
        いい気がしないね。
        ここは反撃するしかなさそう。

        わたしは、見覚えのない人にちょっと厳しい視線を送り返した。
        これってわたしの欠点かもしれないけど、昔から負けず嫌いなんだよね。

        身長は……180センチ位あるかな。
        少し痩せ気味で、身体の線も細い感じ。
        ……肉体的な職業の人というよりホワイトカラー系……?

        顔は中性的な美男子……? 
        ……というか、髪型・服装も含めて典型的なホストっぽい人……?

        まあ、そういう世界に知り合いはいないけど、テレビではそんな人たち
        を何度も見たことがある。

        ホスト顔の人は、わたしが睨み返しているのに気付いたのか……?!

        ……!!
        ……えっ、視線を外してくれないの?
        ……全くどういうつもりッ!

        普通こういう場面って、軽く会釈して視線をそらすのが礼儀ってものじ
        ゃないの……?
        それなのに、逆に目だけで不気味に笑い掛けてきた。

        ……気持ち悪い……!
        なんなの、この人……!?
        かなり悔しいけど……こういう時は無視するのが一番かな。

        わたしは真っ直ぐに前を向いて男の視線をやり過ごすことにした。
        ……さりげなく横目で男の姿を追いながら……

        後できることは……?
        ……!
        ……ちょっと怖い表情をつくって、駅に着くのをひたすら待つ……それ
        だけ。

        5分、6分、7分……

        こういう時間って、どうして遅く感じるんだろう……?
        漫画を読んでいるときは、時間なんてあっという間に過ぎているのに……

        ……8分、9分、10分!

        やっとアナウンスが流れた。
        ……電車が減速する。

        わたしは多少強引にドアの前に陣取ると、恐る恐る後ろを振り返った。

        ……?!……いない……?

        ホスト顔の男は気付かないうちに消えていた。

        いったいなんだったのよッ……!
        わたしのリラックスタイムを返してよッ……!

        わたしは朝から不愉快な気分で改札口を後にした。
        歩きながら何度か後ろを振り返ったけど、あの男が付いて来ることは結
        局なかった。



        駅から歩いて10分位、歴史の重さを感じる古びたレンガ造りの正門が
        見えてくる。

        ここはどこかって……?

        ……見たらわかるでしょ。大学よッ!

        今、機嫌が悪いの。
        ……これ以上話しかけないでよ。

        「ボーン、ボーン、ボーン、ボーン……」

        気分をさらに害する音色が頭の上で鳴り響いてくる。

        「うるさいッ……!」わたしはぶすっとつぶいて、校舎中央に設置され
        ている時計を見上げた。

        「……まだ、30分もある」

        講義が始まるまでどうしようかな?
        同じような暇な仲間がいればいいけど……誰もいない。

        仕方ない……講義室で待つとしますか。
        まあ、あそこなら話し相手になりそうなわたしの同族もいるかもしれな
        いし……

        時間を潰すように、わたしは講義室のある教育科の校舎に向かった。

        あら、校舎の入り口に誰か立っている。
        さっそく同族が見つかった。

        わたしは合図を送るように手を上げかけて……その手を下ろした。

        ……なぜかって?

        ……簡単な話。
        わたしは、その子が大嫌いだから……

        「有里……おはよう」

        「…… ……」

        「あのね、わたし……あなたにお話しがあるの……」

        「…… ……」

        「ねえ……お願い……」

        しつこい子ッ!

        わたしは振り返ると、さっきまでのうっ憤をまとめて晴らすようにすご
        い剣幕で睨みつけて、そして言ってあげた。

        「気が付かなくて、ごめんねぇ……元。友人の舞衣さんッ!!」

        彼女の身体は固まり、強張った顔からは血の気が引いている。
        わたしは、残酷そうな作り笑いを浮かべて講義室に向かった。

        これでいいのよ。
        誰かが囁く。

        本当に、これでいいの?
        他の誰かが囁く。

        耳の中で、今自分が口にした残酷なフレーズが何度も何度もリピートさ
        れる。

        (元。友人の舞衣さんッ!!)

        わたしの背後で、誰かが嗚咽を漏らしていた。



        どう、きみも驚いたでしょ?

        これがわたしの本性。
        本当は性格のねじ曲がった嫌な女の子。

        そうだ。嫌な気分のついでに、この前話さなかった裏の話もきみに教え
        てあげる。
        ちょっと、こっちに来て。

        えーっと、前に話したように、会社の中には父を快く思わない人たちが
        いるって言ったよね。
        この話をわたしと母が知ったのは、今から1カ月くらい前のことなんだ。

        父の病室を、30歳位の真面目そうな男の人がお見舞いに来てくれたこ
        とがあったの。
        その人は父の元部下だと言って、綺麗な花束と父を慕う人達の寄せ書き
        の色紙をわざわざ持って来てくれた。

        わたしとお母さん。思わず泣いちゃった。

        だってそうでしょ。
        今でも、お父さんはみんなに慕われている……そう思うと嬉しくて……

        そんな彼が、帰り際にある裏話をそっと教えてくれたの。
        お父さんは罠に嵌められたと……!

        話しの内容はこんな感じ。

        父の失脚を願う人たちの中には、経営者の親族の人もいたらしいの。
        しかもその人。お父さんに役職で抜かされちゃって、ひどく恨んでいた
        らしい。
        で結局、父を罠に嵌めようとある卑劣な作戦を思い付いたの。

        それは、駅前開発のプロジェクトでリーダーの役を引き受けさせること。

        彼は考えたわ。これで父を失脚させられると……
        それくらい難しい事業内容だったらしいわ。

        でも、わたしのお父さんは負けなかった。
        一生懸命に努力をして、あと一歩のところまで辿り着いたの。

        結局、あの男の作戦は見事に失敗。
        それどころか益々出世に差がつきかねない。

        焦った彼は、父が会社のお金を流用していると言うとんでもない噂を流
        し始めた。
        そして、嘘の書類まで偽装して会社に提出したの。

        とんでもない卑劣で最低な男……

        そうだ、あなたにも教えてあげる。
        わたしのお父さんをこんな目に合わせた憎い男のこと……

        名前は吉竹亘。

        この人、父を追い落とした後プロジェクトのリーダーを引き継いだの。
        当然、全ての成果は独り占め……

        父の部下だった人の話によると、次期社長の噂があるんだって……

        可哀そうだね、お父さん。あんなに頑張ったのに……
        わたし、生まれて初めて神様を恨んだ。

        でも、悲しいことはそれだけでは済まなかった。
        わたしは大切な親友さえ失ったんだから……

        さっき、きみも会ったでしょ。

        あの子の名前は、吉竹舞衣。
        ……そう、あの男の娘。

        性格は、わたしと違って控えめで上品で、誰とでも分け隔てなく付きあ
        うことの出来る女の子。
        これからも、親友として付き合っていけると思っていた。

        因みに、高校・大学も彼女と一緒……
        お互い気が合ったし、将来は教師になる夢があったからね。
        それなのに、あの男は父だけでなくわたしの親友まで奪っていった。

        ……許せなかった。
        あの男は当然……娘の舞衣も……

        あの人の子供という理由だけで恨むのは筋違いかもしれないけど、やっ
        ぱり我慢できない。

        ねえ、きみはどう思う?

        ……もう仲直りなんて……無理だよね。





父 危篤























(六)


八月 四日 月曜日 午後七時  早野 有里
  


        それから幾日か経ち、季節は一番夏に相応しい8月に入っていた。

        連日の猛暑にわたしの体力も低下、自慢の食欲も少々ダウン。
        ……それに比べてお母さん、身体の方は元気だよね。
        慣れないパート勤めをしながら、時間の許す限りお父さんの付き添い、
        それにわたしの食事に家事全般。
        ……おまけに全然痩せてこない。

        ある意味すごいと思う。
        わたしも、見習いたいような、そうでないような……



        そんなある日のこと……
        その日は、真夏にしては珍しく朝から憂うつな雨が降っていた。

        「おじさん、今日はお客さん少ないね」

        わたしはテーブルを拭きながら窓の外を見ていた。
        どんよりとした雨雲のせいで店の中まで暗い。

        「仕方ないさ。たまには、こういう日もあるってことよ……」

        「あら、随分と余裕ね。おじさん」

        やっぱり、この人は偉いな。
        ……わたしにはこんな余裕全然ない。ちょっと見習おうかな。

        結局その日は、季節外れの雨にそば屋並木はノックダウンさせられた。

        「有里ちゃーん。そろそろ店を閉めるから、暖簾を頼むよー」

        調理場から、多少落ち込んだおじさんの声が聞こえた。

        わたしは少し低めのトーンで返事をすると、磨りガラスの引き戸に指を
        かける。

        トゥルル、トゥルル、トゥルル、トゥルル……

        その時お店の電話が、空気の読めない困ったちゃんみたいに鳴りだした。

        「いいよ、おじさん。わたしが取るわ」

        電話に出ようとしたおじさんを制して、わたしは受話器を耳にあてた。

        「はい、そば屋並木で……あっ、お母さん? どうしたの……?」

        「有里ッ! お父さんが……!」

        「お母さん、しっかりしてッ! ……何があったの……?」

        「今、病院から連絡があって……お父さんが発作を起こしたって……
        それでお母さん、今からお父さんの所に行くから……
        そのことを有里にも知らせておこうと思って……」

        「うん、分かった。わたしも直ぐ行くからね。
        ……それまで、お父さんのこと頼むねッ!」

        慌ただしく受話器を置くと、心配そうに顔を覗かせたおじさんに事情を
        話した。

        「そう言う事だから……ごめんね、おじさん……」

        「店のことはいいから、早く行ってやりな。
        タクシー代ならおじさんが出してやる。さっ早くッ!」

        「……ありがとう。それじゃ行くね」

        エプロンをむしり取るように外すと、表へ飛び出し大通りへ急いだ。
        そして、通り掛ったタクシーに乗り込むと父の待つ総合病院の名を告げ
        る。

        わたしは祈るようにつぶやいていた。

        「お願い。がんばって……お父さん……」



        わたしが病院に駆け付けた時には、父は治療の真っ最中だった。

        一階にある集中治療室の前で、母は頭を抱え込むようにして椅子に座っ
        ている。
        わたしは恐る恐る声を掛けた。

        「お母さん……お父さんは……?」

        「あっ、有里……来てくれたんだね」

        母の表情に最悪の結果が訪れていないことを確認すると、少し安心する。

        「うん。で、お父さんの具合は……?」

        「それが……お母さんも今着いたところなの。
        病院の話によるとお父さん、急に発作を起こしたって……
        それで家に連絡が入って、あなたに伝えた後、慌てて病院に駆け付けた
        ところなのよ。……今、先生が診察しているところ」

        髪が乱れたままの母を見れば、事態の深刻さは分かるつもり。
        ……でも、悪い夢を見ているみたい。

        わたしは、これは現実なんだと自分に言い聞かせながら、治療を受ける
        父の姿をガラス越しに追った。

        ……30分……1時間……
        ……やっと治療室のドアがひらく。

        「先生ッ、主人は……」

        先に席を立ち上がったのはお母さんの方だったけど、後の言葉が出てこ
        ない。

        父の担当医である松山先生は、小さくうなづくとわたしたちふたりを手
        招きした。

        「どうぞ、こちらへ……」

        案内されたのは、父がいる集中治療室に隣接する診察室。

        「先生……父は助かるんですか……?」

        わたしは、口を閉ざした母に代わってストレートに聞いた。
        そして返ってくる応えに恐れた。

        「……命は取り留めました。ただし、非常に危険な状況です」

        それじゃあ、どっちなの?
        覚悟していたものと微妙に違う回答に戸惑いがでる。

        「後は、早野さんの気力しだいと言ったところでしょうか」

        「気力ですか……」

        「はい、そうです。それと、持ち直したとしても、また発作が起きる可
        能性もあるということをお忘れなく」

        わたしは人ごとのように淡々と説明する先生に、素直にお母さんと一緒
        で良かったと思った。
        ひとりだと、もっと失礼な言い方をしていたかも分からないし、自分は
        この人が苦手だから……

        「それでは、発作が起きなければ父は助かると……」

        「……ええ。ただし……意識が戻るかまでは分かりません」

        歯切れが悪くて、返ってくる応えはこの後も悲観なものばかり……
        わたしは落ち込む母を抱きかかえるようにして診察室を後にし、集中治
        療室の前に戻って来た。

        「お母さん、無理かもしれないけど元気だして……」

        「…… ……」

        「ほら、先生も仰ってたでしょ。発作さえ起きなければ大丈夫だって……」

        「でもね、有里……」

        「……それ以上、言わないでよ。わたしにも、そのくらい分かっている
        んだから……」

        「ごめんね、有里……お母さん、頼り無くて……」

        「もう、また泣く。それより今夜はどうするの? 
        先生に頼めば、一晩泊らせてくれると思うけど……ちょっと聞いてくるね」

        これ以上落ち込むお母さんなんて見ていられない。
        わたしはその場から逃げるようにして、再び診察室に向かった。





恥辱の契約























(七)


八月 四日 月曜日 午後九時三十分  早野 有里
  


        「先生、話ってなんですか……?」

        20分後、わたしは先生の案内である事務室に通されていた。
        ふたりの付き添いの許可をもらった後、わたしにだけ大切な話があると
        言われた時には多少警戒心が湧いたけど、父のことがあるから断るわけ
        にもいかなかった。

        場所はどこって……?

        ちょっと分からないわ。

        診察室からは結構歩かされたけど、通路も暗くて何度も角を曲がったか
        ら……ここがどこなのかは、さっぱり……

        ただこの部屋、薄暗くて狭くて陰鬱な雰囲気がする。
        壁には何カ所も小さなカーテンがしてあるし、その先に何があるのって
        感じがして、ちょっと不気味。

        今は二人っきりかって……?

        あら、心配してくれるの……?
        ……大丈夫よ。いざとなったら自慢のソプラノボイスで大声をあげるか
        ら、安心して。

        あ、先生が来たわ。……さあ、何の話かしら。



        「……これを見て下さい」

        先生は、テーブルの上に1冊のファイルをひらいて、わたしの前に差し
        だした。

        「これは……?!」

        写真・図解・詳しくて分かりやすい説明文。
        そこに記されているのは、父と良く似た病状の実例報告だった。
        そして、つぎのページには具体的な治療法と薬の紹介まで……

        「先生、この資料は……?!」

        「……そうです。ここに掲載されている治療を行えば、早野さんの発作
        は止められると思います。
        ……ただ、病状が悪化しているので症状自体の完治は難しいと思います
        が……」

        「それでは、なぜあの時……」

        続きの言葉を口に出そうとしたけど出来なかった。
        ……なぜなら、わたしの目は薬の単価に釘付けになったから。

        一錠、10万円ッ!!

        説明書きには、1日1錠って書いてあるから……えーっと、1か月で
        300万円ッ!!

        ……これって、保健効くのかな?
        ……だめ、保険適用外って書いてある。

        わたしは、すがるような目で先生を見つめた。

        「お父さんを助けたいですか?」

        大きくうなづく。

        「本当にそう思っていますか?」

        また大きくうなづく。

        「そのためなら、あなたはどんなことでも出来ますか?」

        うなづこうとして、首が止まる。……ちょっと待って、何か変……?

        「それは、どういうことですか?」

        わたしはゴクリと唾を飲み込み、もう一度先生の顔を見た。

        「いえ、言葉のとおりです。あなたがお父さんのために私たちの要求に
        従ってくれるのなら、この薬代プラス治療費も含めて用立てても良いと
        言っているのです」

        この人……なにを言っているの?
        わたしに……何をさせようと言うの?

        意味が分からず押し黙っているわたしに、先生は具体的な説明を始めた。

        「……実は、ある方に頼まれましてね。
        その方が仰るには、あなたの身体を自由に出来るのなら、お金を出して
        も構わない。それも、お父さんが治療を受けている間は何年でも面倒を
        みることを約束する。
        更に、今後も大学に通うことや、普段の生活はある程度認めようと……
        ただ額が額ですから、1回や2回という訳には参りません。
        まあ数年、あるいは10年くらいは耐えることになると思いますが……
        どうされます?
        私個人としては、良い条件だと思いますが……」

        「……?!」

        わたしの身体……それが何を意味するのか分かっている。
        世の中には、お金でそういう行為をする人たちがいることも知っている。

        ……でも、わたしには関係ない世界だと思っていた。
        少なくともこの部屋に入るまでは……

        「……わたしは……何をすればいいの……?」

        無意識に口がひらいて、慌てて閉じようとしたけど遅かった。

        「その言葉……ご理解してくれたものと判断してよろしいですね」

        また無意識に、今度はうなづいていた。

        「簡単なことです。あなたには、指定された日にこの部屋で男の相手を
        してもらいます。
        そして、それを撮影しあの方にコレクションとして提供する。
        指示を与える者の言葉通りに行為をしさえすれば、何も難しいことはあ
        りません」

        男の相手・撮影・行為……

        抽象的な単語を、わたしの頭が勝手な映像に置き換える。
        よくドラマなんかで身体を張って愛する人を守るシーンがあるけど、今
        のわたしもそんな感じかな。

        でも、ちょっと頼り無いかも……

        「それではあなたの気が変わらないうちに、この契約書にサインをお願
        い出来ますか?」

        わたしは、父を守るスーパーヒーローに成りきったつもりでペンを握っ
        た。



        「……これで契約完了です」

        先生の言葉に、ハッとして書類に目を落とした。

        わたし……勢いでサインしちゃった。
        運命の分かれ道って、もっと深刻なものと思っていたけど、案外簡単に
        決まっちゃったね。

        ……でも、これで終わりではなかった。
        先生はわたしの調査書を作成すると言って、書類を1枚テーブルに置い
        た。

        「私の質問に正直に答えて下さい」

        それだけ言うと彼は色々な事を聞き始めた。

        最初は、極当たり前の基本的な事項……
        生年月日に始まって、身長・体重・血液型。
        ……それにちょっと顔が赤くなったけど、スリーサイズ、妊娠している
        かまで……

        このぐらいなら、覚悟していたからある程度仕方ないと思っていた。

        ……でも、次第に質問の中身が陰湿で卑猥なものに変化していった。
        初潮はいつきたとか……陰毛が生え始めたのは、いつ頃かとか……

        わたし、つい言葉を詰まらせちゃった。

        だってこれは、女の子にとって他の人には隠しておきたい大切な思い出
        なんだよ。
        ……分かるでしょ、この気持。

        でもね、結局答えちゃった。だって契約したもんね。

        因みに、初潮は中学生になった頃……
        これは平均的だと思うよ。

        ……後、下の毛が生え始めたのは中学2年生になってから。
        その頃からわたしぐんぐん背が伸び始めて、気が付けばお尻もふっくら
        してきて、ある日お風呂に入っていて気が付いたの。
        身体を洗っていたら……その、指が下腹に触れて何か違和感があったか
        ら。
        それで良く見てみたら、もやもやっと生えてたわけ……

        ……ところで、松山先生の質問まだ終わらないね。

        「あなたは、男性経験がありますか……?」

        やっぱり、まだ終わらない。

        「処女かと聞いているのですッ!」

        随分とストレートな聞き方……
        当たり前でしょ! と言う言葉をぐっと堪えて、素直に答えた。

        「はい、処女です」と、目の周りが熱くなるのを感じたけど具体名で言
        っておいた。
        もう一度は勘弁して欲しいから……

        「前回の生理は、いつでしたか……?」

        「はい、10日ほど前だったと思います」

        これも、なんでそんなことって言い返そうとして止めた。

        ……どうせ、わたしは男の人に好きにされるんだ。
        勝手に妊娠してもらったら困るからだと思うことにしたの。

        ……あれ? 先生の目、いやらしく感じるけど気のせいかな。

        わたしは、初めて会った時の全身を舐め回す視線を思い出して、肌が総
        毛立つ気がした。

        「次の質問は答えにくいと思いますが、正直に答えなさい。
        あなたは、オナニーをしますか? 尚、している場合は週何日していま
        すか?」

        今オナニーって言わなかった?
        それって、あれだよね、自分で慰めるってやつ。

        「…… ……」

        言えない。そんなこと絶対無理ッ!

        「どうしました……? やっぱり恥ずかしいですか?」

        さっきの視線、間違いじゃなかった。
        この先生、わたしの恥ずかしがる姿を楽しんでいるんだ。

        悔しいッ!……悔しいけど答えなくちゃ……いけないよね。

        「……ッ。あります……」

        わたしは答えた。でも、わたしにも聞こえなかった。

        「声が小さいッ! もっとはっきりとッ!」

        「あります。オナニーしたことありますッ!」

        今度は、自分の耳にもしっかり届いた。

        そうよ。それがどうしたと言うのよ。
        ……女の子だってすることくらい、あるわよッ!

        「ほう、あるんですね。で、週に何日位……? まさか、毎日とか……
        クックックックッ……」

        この人って……!!
        思い尽くだけの悪口を、声に出さずに叫んでから言ってあげた。

        「そんなわけ、ありません。……月に1回位です」

        「本当ですか……?」

        「本当です。信じて下さい……」

        泣かされそうになった。
        ……でも、泣かなかったし涙も滲ませなかった。

        こんな男を喜ばせて堪るもんですかッ!



        ごめんね。待たせちゃって……

        契約の手続きが全部終わっているのに、あの男しつこくて……何か飲ま
        ないかって言うんだよ。
        わたし、母が待っていますッと言って、部屋を出てきちゃった。

        きみにも心配かけたわね。

        ……ごめんなさい。そして、ありがとう。
        ……それと、きみには隠し事をしたくないから……これ読んでくれる?



          契約書

          私、早野有里は以下の行為に従う事を約束いたします。

        ● 私の時間・行動は、全て定められた管理者の管轄の下に置かれるもの
          とする。

        ● 管理者が、私の身体をどのように扱っても抵抗はいたしません。
 
        ● 私は、管理者のどのような性的行為にも全て従います。

        ● 私は、この契約内容を他者には一切公表いたしません。
 
          以上、もし契約が守れない場合は、どのような措置をとられても異
          議申し立てはいたしません。


          署名  早野 有里



        ちょっと文字が乱れているけど、署名もあるでしょ。

        これで、わたしは鎖に繋がれた奴隷と一緒。
        ……それもエッチな奴隷。

        そうだ。初めてきみに会った時に、わたしのスリーサイズ聞いたよね。
        あの時はちょっと恥ずかしかったけど教えてあげる。

        バスト78、ウエスト51、ヒップ82……
        ついでに体重は、51キロ。

        悪くないスタイルでしょ。……ただし、胸のことは無視してね。

        ……それと……これは、わたしの独り言だと思って聞いてね。
        きみにだけの、わたしからの告白だよ。

        わたしのオナニー初体験は高校一年生のとき……
        あれは体育祭が終わった頃だったから、確か10月の始めくらいかな。

        たまたま友達がこっそり持ってきたいけない漫画を、昼休みに友達と回
        し読みしていて……
        その、大人の世界に興味を持ったの……

        その夜、わたしはベッドに入ったけどなかなか寝付けなかった。
        生理が終わった直後でちょっとイライラして、おまけに昼間の光景が頭
        に浮かんで……
        ……気が付けばわたしの指は、パジャマのズボンの上から股のつけ根を
        スリスリと……

        そうしたら、あそこがキューッという感じがして、ものすごく切ない気
        分になっちゃった。
        だってこんな感覚、今まで感じたことがなかったから……

        わたし、何が起きてるのか分からなくて、そうしたらものすごく怖くな
        ってきて……
        結局そのまま寝ちゃった。

        今思えば可愛いやり方だよね。

        ……あ、勘違いしないでよ。
        今でもわたしは指だけだからね。

        エッチな道具も持っていないし、使ったこともないんだから……
        本当よ!……信じてよね。

        まあ、あの頃と違って下は脱いでするけどね。
        だって、いやらしい液でパジャマやパンツ、汚したくないでしょ。

        はい、独り言はこれでおしまい。
        どう? わたしの秘密の思い出……

        なぜ、こんなこと話したかって……?

        本当はね……怖いんだ。これからのこと……
        だから、きみに練習代になってもらったの。
        これとは比較にならないくらい恥ずかしいことをさせられそうだから……

        ……あれ、ちょっと怒った?

        許してね。これからも、きみとは良いコンビでやっていけそうなんだか
        ら……





その男 副島 























(八)


八月 十一日 月曜日 午後五時三十分  早野 有里
   


        それから一週間、幸いにして父の発作は起きなかった。

        わたしたち親子の愛に満ちた看病と、薬の効果かな?
        そして、その間にお母さんへの説得も行われた。
        お父さんの治療方法と医療費のことも、うまくごまかさないといけない
        からね。
        このあたりは、専門家である松山先生にお任せしたの。

        あの先生、作り話を信用させようとして嘘の申請書を片手に迷演技…
        …?!

        結局、お母さん。あっさり騙されちゃって……最後はボロボロと大粒の
        涙を流しての嬉し泣き。
        ついでに、わたしも思わずもらい泣き。

        あの時のお母さんの顔は今でも忘れられない。
        ……号泣してるのに輝いていた。

        話の内容は、臨床試験の患者になる条件としてお父さんの医療費は免除
        されるとか……

        でもそんなこと、どうでもいいじゃない。
        お母さんにはいつまでも笑っていて欲しいからね。

     

        「ねえ、お母さん。
        お父さんって……わたしたちのこと、どう思っているのかな……?」

        西日の差す病室でお父さんの寝顔を見ていたら、何かふっと聞きたくな
        って話し掛けていた。

        「うーん、そうねぇ。一言……ありがとうかな」

        少し考える素振りをみせて、母は意味深な答えをした。

        「……ありがとう。それだけ……?」

        不満そうな声を上げたわたしの横に母は並ぶと、父の頭を撫で始める。

        「照れ屋さんのお父さんに、それ以上の言葉は必要ないと思うわ」

        「……そうね。その方がお父さんらしいかも……」

        納得したようにうなづいて、わたしもお父さんの頭を撫でていた。



        この一週間……

        お父さんには申し訳ないけど……ある意味、わたしたち家族にとっては
        幸せな時間だった気がする。
        相変わらずお父さんの意識は戻らないし、お母さんと一緒に病院へ通っ
        ては病室で過ごすだけの毎日……

        でも、そんな日々が貴重で有意義な時間……
        今になってみればきっとそうかも……
        よく考えてみたら、こんなに長期間、家族3人が揃うことってなかった
        よね。

        「……有里。お母さん明日からパートの仕事に戻ろうと思うの。
        お父さんの具合も安定しているし、せっかく見付けた仕事だからね。
        ……あまり長いこと休んで、クビにでもなったら大変でしょ」

        お父さんの顔に日が差さないように、ブラインドを調節しながらお母さ
        んが話し掛けてきた。

        「お母さん、お仕事がんばってね。
        わたしも、そろそろ講義に出席しないと単位に響くから……明日から行
        こうかな。
        ……それに、並木のおじさんも首を長くして待っていそうだしね」

        「それじゃ有里、今晩は外食にでもしましょうか。
        ……明日からのふたりの頑張りに備えて、きょうはお母さんの奢り」

        「大丈夫? パート代って安いんでしょ。
        ……あっ、ちょっと待って……メールが入ったみたい」

        携帯がポケットの中で震えている。
        ほんの束の間のささやかな幸せを空気を読まない誰かがジャマをする。

        わたしは、湧き上がる不安を隠しながら画面を覗いた。


        『今夜8時、夜間受付まで。   副島』

        たった一行の何気ない文章なのに、胃がむかつき吐き気が襲う。

        いよいよ来たんだ……

        「どうしたの有里……?! おでこが汗でビッショリよ」

        「……ごめん、お母さん。
        ……わたしちょっと、用事が出来ちゃった。
        食事はまた今度ということで……今から友達のところに行ってくるね……」

        心配そうにする母にわたしが出来ることは、咄嗟に思い付いた嘘でごま
        かすことだけ……

        お母さん、嘘を付いて本当にごめんなさい。
        それと、有里は今日から悪い子になります。
        ……これも一緒に許してね。



        母と病院のロビーで別れた後、わたしは駅前の本屋さんを梯子しながら
        適当に時間を潰した。
        そして、じれったいほど進まない時計の針にイライラを募らせて、指定
        された時刻の10分前に夜間受け付けを訪れた。

        窓口で応対した職員さんは、愛想の悪い人だった。
        値踏みするようにわたしの顔を見て、一言「案内の者が来るまで、その
        辺で待っておけ」って……

        瞬間、ムカッてきたけど、ここはぐっと我慢我慢。
        わたしは言われた通り、壁に寄り添うようにして待っていた。

        しばらくして、通路の奥から男性がひとり歩いて来るのが見えた。
        その人は白衣を着た松山先生ではなく、スーツ姿のもっと大柄で体格も
        良くて、ただ怖い顔をした人。
        普段なら目を合わせるのも勇気がいるって感じ……

        おまけに受付で待っているわたしに、あごをしゃくるようにして付いて
        来いだもんね。
        ……受付の職員さん共々、失礼よね。

        それからわたしは結構歩かされた。
        薄暗い廊下を右に曲がり左に曲がり、途中で方角さえわからなくなって、
        ここはどこ? ってなってた。
        それなのに、大柄で怖い人はわたしを振り返ることなく歩き続けた。
        一言も話しかけてくれずに、まるでわたしの存在を否定するように……

        軽いウォーキング気分を味合わされて連れて来られたのは、彫刻が一杯
        施された両開きの扉の前だった。
        実用重視の建物に、なぜ? って思う扉だったけど、それのドアノブに
        付いているキーボードにも、なぜ? って感じ……

        今、例の怖い人が、ドアノブに向かってピッピッってなにかを打ち込ん
        でいる。
        ……暗証番号かな。
        わたしの方からは見えなかったけどね。

        扉がひらくと、わたしを置いて案内人さんは去って行った。
        結局彼は、一言もしゃべってくれなかった。

        さあ、今からわたしにとっての戦争ね……
        きみも応援してよ。
        ただし、気を利かせて目を瞑るのも忘れずにね。



        わたしは警戒するように部屋の中央までは進まず、扉の入り口付近から
        中を窺った。

        大きなガラスの嵌めこまれた木製のキャビネット。
        フレームが銀色に光り輝く天板が厚いガラスで出来たテーブル。
        それに向かい合うように配置された、大人4人が充分に座れる皮張りの
        ソファー。

        なんか、ゴージャスって感じ……
        思わず履いているジョギングシューズを脱ごうとしたくらいだから……

        ……なにか抜けていないかって……?

        ……わかっているわよ。
        わざと話題から外していただけ……

        わたしの視野に入っているのは、ゴージャスな調度品だけではなかった。
        おそらくこの部屋の主でメールの送り主であろう人は、わたしに背を向
        けてソファーに座っていた。

        「何を突っ立っているんです。さあ、こちらへどうぞ」

        「……失礼します。あの……えっ……?!」

        振り返って話し掛けてきた人を、わたしは知っている。
        でも、会話したこともないし誰かも知らないけど……
        確かにこの人に、自分は会っている。

        わたしは、その男と向かい合うようにソファーに座った。

        「あなたが早野有里さんですねぇ。これはこれは、写真以上にお美しい。
        あなたとは初対面なので、自己紹介といきますか……」

        「待って下さいッ……!」

        男の話を遮り疑問をぶつけた。

        「半月ほど前の、わたしに対するあなたの態度……
        あれは一体何の真似です? ……副島さん」

        忘れもしない。電車内での腹立たしい思い出……
        どうせメールを送ったのも、この男だろう。
        ここは強気に出て主導権を握る方が得策かも。

        「ああ、ばれていましたか。あの時は、あなたに会いたい一心であんな
        真似を……どうもすいません」

        副島はあっさりと頭を下げた。
        それも白々しい言い訳で……

        無言でいるわたしを了解したと受け取ったのか、澄ました表情でまた話
        し始めた。

        「それでは、改めて自己紹介をさせてもらいます。
        名前は副島徹也。
        今は、ある方の秘書をしております。
        あなたもお読みになったと思いますが、契約書に記されている管理人と
        は当面、私のこととお思いになって結構です。
        あとは年令とか趣味とか答えましょうか……? 
        なんなら、私のスリーサイズでも……」

        随分とふざけた人。
        それとも、わたしの緊張をほぐそうとしてくれているのかしら……?
        どちらにしろ、この前の態度と今の環境を考えると、うかつなことは出
        来そうにもないわね。

        わたしは冷静そうな表情を作って男を睨んだ。

        「意外と面白い方ですね。……でも、ジョークは下品で全然面白くない。
        あ、そうでした。ひとつだけ質問してもいいですか?」

        「はい、なんなりと……」

        「父の治療費を出してくれている方って、誰なんですか?」

        この前松山先生から聞きそびれた疑問に、この人答えてくれるかしら?

        「その事ですかぁ……まぁ、いいでしょう。
        えーっと、早野 有里さん。時田総合金融の社長と言えばお分かりにな
        りますか?」

        教えてもらえたのは簡潔明快な答え。

        「時田総合金融……?」

        わたしはオウム返しのように繰り返していた。

        頭の中に、駅前にある巨大なガラス張りのビルが思い浮かんだ。
        ……確か、あの建物が男の言った会社のはず。

        それは、例の駅前総合開発の旗振り役でこの地域で一番の巨大企業。
        お父さんのプロジェクトも、指揮していたのは時田金融だって……
        お母さんに聞いたことがある。
        そしてその社長……?!

        頭の中で嫌な相関図が出来あがる。

        と、いうことは……わたしが身体を差し出す相手は……お父さんの仕事
        の発注者ってこと……?!
        ……そんなことって……!

        「お分かりになりましたかぁ? ……因みに、社長の名前は時田謙一。
        あなたのお父さんにとっては命の恩人なのですから、お忘れなく……
        それでは、時間が惜しいので手短に後の説明をさせていただきます。
        ……これを御覧なさい」

        ……失敗。
        頭が混乱しているうちに話を進められてしまった。

        副島って人はテーブルに置いてあったリモコンを手にすると、正面にあ
        る大型の液晶モニターの電源を入れる。
        ……まさかテレビを見る訳じゃないよね。

        「よぉーく、見てて下さいよぉ」

        画面に見覚えのある顔が映っている?

        「えっ、わたし……?!」

        そう。映っていたのはわたし。それもかなりのアップで……
        そしてボタンを押すたびに画面も変化する。
        正面・真横・真上・足元から見上げるような角度に、わたしは思わず両
        足を閉じ合わせた。

        「驚きましたかぁ……? ここはちょっとしたスタジオになっていまし
        てねぇ。あなたの撮影会を開くには、もってこいの場所でしょ」

        「つまり……身体を……」

        「ええ、そうです。まあ、グラビアタレントのそれとは、訳が違います
        が……ククククッ……
        ところで、有里さん。行為の意味について知っていますか?」

        「意味って……? この場合、その……エッチをするってことでしょ!」

        わたしは、迷いながらも語尾を強めて言い放っていた。

        「はぁーい、正解。ただ補足させてもらいますと、あなたがエッチな行
        為をすることによってお父さんの命は保障されます。
        つまり、行為をした分だけ治療費が支払われるということです。
        それと内容も大事ですよぉ。
        なるべく男性を興奮させることが出来ればポイントが高いですからね。
        どうですぅ……? 面白いルールでしょ」

        「…… ……!!」

        あまりにものショックで声を出すのを忘れていた。

        ……それって、まさか……
        わたしの努力次第で、お父さんの寿命が決まるということ……?

        なにも言い返せないうちに、説明だけがどんどん進んでいく。

        「何も仰らないと言うことは理解いただけたとものと致します。
        ……それでは今日の予定を……

        一つ目は、服を全て脱いでもらい、その姿をカメラに収めます。
        二つ目は、あなたの性感をチェックします。
        三つ目は、私とセックスをしてもらいます。

        ここまでが今晩の予定です。
        因みに、何時になろうとこの予定通りに実行しますので悪しからず……
        ……おやぁ、顔色が優れないようですが、大丈夫ですかぁ……?」

        「はい……何ともありませんから……続けて下さい」

        わたしが想像していたものと全然違う。
        男の人と、その……セックスをするだけでも死ぬほどの覚悟がいるのに、
        それって……他にも色々なことをさせられるってこと?

        考えただけで吐き気がしてきた。
        こんなことなら胃薬を持ってくれば良かったかな。




正常位でお願いします























(九)


八月 十一日 月曜日 午後8時三十分  早野 有里
   


        「そうですか……では、事前の打ち合わせに入りましょうかぁ。
        えーっ、有里様にお聞きします。
        初エッチは、どの体位がよろしいでしょうかぁ?
        ご希望があれば、どうぞぉ……」

        「えっ、体位……?!」

        ぼーっとしているうちに、この人なにを言っているの……?
        ……その、姿勢ってことよね。
        男の人と女の人がエッチをする時のフォーム……?
        ……ちょっと違うかな。

        でもこっちから詳しく聞くのって、なんか恥ずかしい気がするし……
        こういうときには分りませんって顔をして、じっと黙っているのが一番
        かも……

        そうしたら案の定……
        わたしが困惑していると思ってくれたのか、副島は一枚のイラストを見
        せてくれた。

        どれどれ……?
        ……えっ?! なんなのよッ?!!

        正常位・バック・騎乗位・座位・その他色々……?!
        キャラクターの顔がみんな笑顔でぇッ……?! 
        ……それで裸でぇッ……?!
        ……セックスぅッ……?!
        ……なにが、愛する男女の漫画解説よぉッ!

        なにを印刷したのか知らないけど、目をそらしながら、ついつい見てし
        まったじゃないッ!!
        こんなもの見るんじゃなかった。
        ……顔が一気に火照ってきた。

        「やはり初心ですねぇ。有里さん、可愛いですよぉ」

        「それって、褒めているんですか……? それとも馬鹿にしているんで
        すか?」

        「どっちにとられても、構いませんよぉ」

        悔しいけど……この中から選べってこと……?
        わたしの初体験の、これが体位……?

        きみまで、なに、ニヤニヤしてるのよ。
        ……わたしだって……その……するときに、足をひらくことぐらい知っ
        ているわよ。
        ……でもね。本当に大切なのは、恋人や夫婦がベッドで寄り添い結ばれ
        ていく……
        そうよ。わたしが知っているのは映画のラブシーンみたいなものよッ!
        仕方ないじゃない。まだ経験がないんだから……

        わたしが決めかねているのをいいことに、副島はパンフレットを取り上
        げた。

        「答えたくなければ、それでもいいですよぉ。
        その時は、好きなようにやらせてもらいますからぁ。
        そうですねぇ。私の好みとしては、騎乗位、バックなどですが……
        そうそう。ここには載っていませんが、張り形で自らの処女膜を破ると
        いうのも……いいですよねぇ……ククククッ……」

        「いやッ、やめて下さいッ……!」

        そんなのムチャクチャ! もう聞きたくない。

        わたしは耳を塞ぎたいのを我慢して副島からパンフレットを奪い返すと、
        目をそらすようにしてなるべく普通そうな姿勢を探した。

        どれよ……どれが標準……?
        早くしないと……わたしの初体験、メチャクチャにされる。

        そして結局、記されてある単語を信じることにした。
        正という字があるんだから普通なんでしょ。

        「あの、決めました……正常位で……お願いします……」

        でも、自分で言うのもなんだけど声が小さい。

        「すいません。聞き取れませんでしたぁ。
        ……何、張り形ですかぁ? それはそれは……」

        この人、わたしを辱めて楽しんでいる。
        契約に立ち会った松山先生と同じ性格みたい……

        ううん、今はそんなことより……
        ものすごく悔しいけど、そんな恐ろしいこと絶対阻止しないと……!

        「違います。意地悪しないで下さい。
        ……せ、正常位でお願いしますッ……!!」

        あーあ、大きな声で言っちゃった。
        それなのに副島って人……にやついたスケベそうな目でこっちを見てる。

        「そうでしたかぁ。正常位ですねぇ……承りました」

        どうして、この人……
        こんなときだけ礼儀正しそうに挨拶するのよ。

        また、胃が痛くなってきちゃった。



        「それでは、有里様。ショータイムを開始いたしましょうかぁ」

        副島はうきうきとした顔で、何かの劇でも始めるように大げさに宣言し
        た。

        いよいよ始まった。

        わたしも覚悟を決めようと、お腹に力を入れてこぶしを握り締める。

        「では有里様。カメラの前で御主人様にご挨拶を……」

        副島は、ポケットからプリントアウトしたコピー用紙を取り出すとわた
        しの手に持たせた。
        そして、これを読めと目で合図をしてきた。

        さっきのイラストのこともあるし、どうせろくでもないものに決まっている。
        わたしは警戒しながら下読みを始めて……案の定、途中で読むのを止め
        た。

        なによ、この文章……!
        生まれたままの姿……! 処女喪失ショー……!
        その上、顔の表情まで指示している。

        冗談じゃない。こんな物ッ! として、床に投げ捨てようとしたけど……
        その手が止まった。

        ……なぜ、きみが止めるのよ……?!
        それに、どうしてそんな悲しい顔をするのよ?

        これから、恥ずかしくて辛いことをしなければいけないのに、こんなこ
        とで逃げるのかって……?

        ……でも……それは……
        …… ……
        あーあ。それを言われたら反論出来ないじゃない。
        ……確かにそうだよね。
        これから男の人の相手をするのに……このぐらい何ともないよね。

        ……きみの言うとおり。
        そうと決めれば、ここは手抜きなしでいくよ。

        わたしの長所は何事も一生懸命……これはお父さんと一緒……
        例えそれが辛いことでもね。

        わたしは指定されたメインカメラの前に立つと、深くお辞儀をした。
        そう、ポニーテールの髪が下に垂れ下がるくらいに……

        そして、とびきりの笑顔を作って挨拶を始めた。

        「はじめまして、早野有里と申します。
        このたびは父の治療費を援助頂き、誠にありがとうございます。
        このお礼といっては、何ですが……
        ……ど、どうぞ私の身体を、ご、ご主人様の鑑賞用コレクションとして
        ……存分にお役立て下さい。
        き、今日は、ご挨拶代わりに……ゆ、有里の生まれたままの姿と……性
        感調査、そして……し、処女喪失ショーを、余すことなくお見せいたし
        ます。
        お見苦しいとは思いますが、最後までお付き合い下さいませ……」

        途中、ちょっと声が詰まり掛けたけど……まあ合格かな。
        さあもう一度。
        丁寧にお辞儀をして思いっきりのスマイル……

        良く頑張ったね……有里。

        ……でも、気付かれなかったかな?
        頭を下げた時、両目から水滴が落ちて床に染みが出来たことに……