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戻れない……あの日……

















【見果てぬ夢  あらすじ】
  


        典子の見果てぬ夢。
        それは亡き夫と共に築いてきた、かけがえのない想いを守り、そして実
        現するため。
        拓也の見果てぬ夢。
        それは誇り高き自分を傷つけた者たちへの復讐。己のプライドを満足さ
        せるための野望。

        そのために、男は女の身体を踏み台に夢を掴もうとする。
        女は、その成熟した身体を差し出す見返りに、男の野望に微かな期待を
        寄せる。

        半年前に愛する夫を亡くした岡本典子(おかもと のりこ)は、絶望と
        悲しみに追い立てられるようにして懸命に生きてきた。
        夫と共に苦労して開業した店を守るため。
        夫と共に愛した街並みを再開発の嵐から守るため。

        99パーセント勝ち目のない戦いに挑むように、朝と夜の区別もなく働
        き続けて、やがてその気力さえ失いかけたとき、典子はひとりの男と出
        会う。
        その男は、河添拓也(かわぞえ たくや)
        典子が高校時代に、初めての身体を捧げた元恋人であった。

        拓也もまた、勤務する会社内での理不尽な派閥争いに巻き込まれて左遷。
        行き場を失い、傷ついた心を引きずったまま彷徨っていたのだった。

        そして再開まもなくして、典子は拓也に抱かれた。

        『俺の男を満足させてみろ。典子、お前の身体でな。
        ふふっ、そうだ。俺の命じるままに痴態を演じれば、お前の夢を叶えて
        やってもいいぞ』

        その後も、成熟した肢体を拓也のアブノーマルな要求に応えさせて、様々
        な痴態を演じる典子。
        だが、彼女の心の中には愛する夫の面影が生き続けていた。

        『どんなに身体を弄ばれても、心だけは穢されない』

        『だったら典子。お前のその身体、もっと利用してやろうじゃないか。
        この俺様のために』

        互いの心が開かれないまま、男と女は絡み合っていく。
        それぞれの『見果てぬ夢』実現のため。

        そして今、典子と拓也。
        このふたりの男女をなぞるように、新たな男と女がもがき苦しみながら
        報われない愛を追い求めていく。
        おぼろげでしかない、夢を掴み取ろうとして……







(1)



        篠塚美里の視点


        1年前のある日……

        「ここも再開発されちゃうのかな?」

        わたしは歩きながら、黒目がちの瞳を左右に走らせた。
        昭和の面影を色濃く残した街並み。
        車がすれ違うのがやっとの細い路地。
        その至る所で目に付くのが、街の再開発に反対するおびただしい看板の
        群れ。

        合板を真っ二つに切り裂いた感のある立て看板には、『再開発反対』と書
        き殴られたような文字が。
        また、威勢のいい声で呼び込みをする魚屋さんの入り口にも『時田の横
        暴を許すな』って。

        そうだよね。この街が変わっちゃうのは美里も反対かも。
        わたしのお父さんは、その時田グループで働いているけど、そんなの関
        係ない。
        鉄筋コンクリートのビルばかりが並んだ街なんて、息が詰まっちゃうも
        の。
        このお空だって……

        わたしはオレンジ色に染まる空を見上げた。
        明日も天気かな?
        お天気だったら、思いっきり走ろうっと。嫌なことをなんか全部忘れて。
        美里は走ることが大好きだから。

        グーぅぅっっ!

        やだな。お空を見てたらお腹が空いてきちゃった。
        こういうときは、迷わずに『ベーカリーショップ 岡本』だよね。
        あそこのあんぱんは絶品だし、それに典子お姉ちゃんも旦那様の博幸さ
        んも、とってもいい人だから。

        「おや、美里ちゃん。今、学校の帰り?」

        美里が買い食いしようとしているのが、バレちゃったのかな?
        お店の引き戸を開ける前に、博幸さんが顔を覗かせた。

        「あのぉ~、あんぱん……まだ、ありますぅ?」

        学校帰りって言葉が胸に刺さったけど、そんなことくらいで成長期の食
        欲は抑えられないの。
        わたしは博幸さんを見上げて、横目にお店の中も覗き込んでいた。

        「う~ん、せっかく寄ってくれたのに申し訳ない。あんぱんは、ついさ
        っき売り切れちゃって。ごめんね、美里ちゃん」

        「え~っ! あんぱん、売り切れちゃったんですかぁ。残念だなぁ」

        顔の前で両手を合わせる博幸さんに、お腹のムシも残念がっている。
        ググーって。

        「でもせっかく来てくれたんだし、美里ちゃん。さ、中へどうぞ」

        そんな美里に深く同情してくれたのか、博幸さんが引き戸を大きく開け
        てわたしを迎え入れてくれた。

        「おじゃましま~す。クンクン……いい香り♪」

        焼き立てのパンの香りに、わたしは鼻を上向かせた。
        美里の肌と一緒、小麦色をしたパンくんたちが、わたしを出迎えてくれ
        ている。

        「あら、美里ちゃん。お帰り」

        「ただいま、典子お姉ちゃん」

        お客さんを知らせるベルが鳴ったからかな?
        水色のエプロンをした典子お姉ちゃんが、顔を覗かせてくれた。

        「典子。美里ちゃんが来てくれたんだけど、もう、あんぱんは残ってな
        いよね?」

        「ええ、さっきのお客様で完売。あっ! ちょっと待っててね。確か試
        作品が……」

        典子お姉ちゃんはポンと手を打つと、また店の奥に消えた。
        ちょっと、そそっかしいところがあるけど、美里は典子お姉ちゃんがだ
        ーい好き。
        美人でスタイルが良くて、それなのに、とっても気さくで優しくて。

        お母さんのいない美里に、お母さんのように接してくれて。
        1人っ子の美里に、本当のお姉さんのように寄り添ってくれて、いろん
        な相談に乗ってくれて。

        血は繋がっていないのに、家族のよう。
        ううん、絶対に家族だよ。一緒に暮らしていなくたって。

        「美里ちゃん、このあんぱんを試食してくれないかな?」

        「えっ、いいの? わぁ、おいしそう♪」

        典子お姉ちゃんが持ってきてくれた試作品のあんぱんは、表面が艶々と
        輝いていて、とってもいい香りがした。

        「いただきま~す♪」

        パクっ……ムシャ、ムシャ……

        「どう? 美里ちゃん。おいしい?」

        典子お姉ちゃんが、お茶を差し出してくれた。
        その様子を博幸さんが、目を細めて眺めている。

        「ごく、ごく、ごく……ふぁぁ、こんなあんぱんを食べたの初めて。最
        高です♪ 美里お姉ちゃん、もう一個お代わり!」

        「あらあら、美里ちゃんは食いしん坊ね。でも、そう言ってもらえると
        嬉しいな。ね、博幸」

        「ああ、そうだな典子。美里ちゃんのお墨付きももらえたし、早速商品
        化決定だな。はははは……」

        「もう、博幸ったら、気が早いんだから。それに気が早いといえば、そ
        うだ。ちょっと美里ちゃん、これを見てくれる?」

        典子お姉ちゃんが、大き目の画用紙をわたしの前で拡げた。

        「えーっと、おいしい……焼き立てのあんぱん……あります……? 
        う~ん……」

        わたしは黒い墨で書かれた文字を口にした。
        ついでに唸っていた。
        お世辞にもあまり上手じゃない。
        美里も習字は苦手だけど、このレベルなら勝てるかも。
        それに余白に描いてある、丸いお饅頭のようなものって……もしかして
        あんぱん?
        でも湯気まで描いてあるし……

        「あんぱんはOKとして、でもこれはねぇ。博幸が張り切って作ってく
        れたんだけど……」

        「これって、博幸さんが……? う~ん、人は見かけに寄らないという
        か……」

        「おいおい、美里ちゃんまでなんだよ。そんなに俺って、センスないの
        かな」

        博幸さんが、顔を真っ赤にして頭を掻いている。

        「でも……いいかも? これを引き戸のガラスに貼り付けておけば、意
        外とお客さんの目に留ったりして」

        「そうねぇ、美里ちゃんの言うとおりね。ふふっ……」

        美里のアイデアに、典子お姉ちゃんの顔が綻んだ。
        隣では博幸さんが、ポカンとした顔で典子お姉ちゃんとわたしを見比べ
        ている。

        雲ひとつない澄み切った秋の夕暮れ。
        ほんわかとしていて、まったりとしていて……
        いいよね、こんなひと時。

        いつまでも浸っていたい。
        わたしはオレンジ色に染まった世界の中で、そう思っていた。