(3) 黒川信人の視点 俺はクッションの効きすぎたベッドに寝転んで、天井を見上げていた。
5分……10分……20分……30分……
要するに、あの娘がバスルームに消えてから、ずーっとってことだ。
初めのうちは、壁一面を覆う窓ガラスからの夜景に見とれていたが、い
つのまにか興味が消え失せていた。
それは内装に関しても同じだった。
向かい合うように配置された、高級感漂うひとり掛けソファー。
シックな黒を基調とした木目が美しいキャビネット。
裸足で歩くことまで想定しているのか、肌触りが心地よい絨毯まで。
俺の中での感動は、そう長続きはしなかった。
河添課長が手懐けている岡本という女も、このホテルで抱いたと聞いた
から利用してみたが……
俺のような零細企業の社長には、分不相応ってやつかもしれない。
「それにしても、あの娘……本気で俺に抱かれるつもりか?」
このベッドに横になってから、この言葉を何回口走っただろう?
同時に、濃紺のブレザーに身を包んだ少女の姿が、思い返されてくる。
『お、お願いします……わたしを……み、美里を抱いてください。
美里とその……セ、セックスしてください!』
熟れたリンゴのように頬を赤く染めて、薄い唇をわなわなと震わせなが
らも、はっきりとした口調で少女は言った。
夕暮れ時の人通りの途切れた道端で、俺はその気迫に押されるように頷
いていた。
いや、可憐な少女の大胆な告白に、俺の男が突き動かされていた。
そうに違いない。
ふっ、まさかこの俺が……?
元、興信所あがりのこの俺が……?
謎が謎を呼び、それが脳ミソを溶かすように渦を巻いている。
俺はその渦から這い上がる糸口を探ろうと、これまでの経緯を思い返し
ていた。
それは1週間ほど前のこと……
「黒川、この娘を頼む」
俺は上司である河添課長から1枚の写真を手渡され、簡単な指示を受け
た。
頼むとは、要するに写真の娘を尾行し、素行を調査しろということだ。
「ですが、この娘さんは副社長の……?」
そこまで口にして、俺は声を消した。
おそらくだが、この人は写真の彼女を利用して、自分を陥れた副社長に
復讐しようとしている。
そのために彼女の身体を奪って……
「それでいつ頃までに?」
俺は顔を引き締めると、会話を元に戻した。
「なるべく早く頼む。なーに、その間のお前の業務は気にしなくても大
丈夫だ。俺がお前の分まで面倒を見てやる。
帰ってきたら、仕事が倍増しているかもしれんがな」
そう言うと、課長は白い歯を見せて豪快に笑った。
日焼けした現場主義の肌に、輝くような前歯のコントラストがいかにも
この人らしい。
そう思った俺も、つられるように笑い声をあげた。
この上司と出会って、まだ3カ月余り。
だが、この人になら自分の人生を賭けても構わない。
ここ最近の俺は、そう思い始めていた。
そして、その日から俺の特命業務が開始されることになる。
篠塚美里(しのづか みさと)
私立宮下学園に在籍、現在2年生。学業成績は平均値よりやや良。
クラブ活動は陸上部に所属。
主に中距離走を得意とし、インターハイでも上位の成績を残す。
性格は勝気な面があるものの、誰とでも分け隔てなく付き合えることか
ら慕う者多数。
「要は勉強もそこそこ出来て、運動神経抜群。おまけにクラスでも、ク
ラブでも人気者ってやつか」
調査を始めて2日。
俺は宮下学園の裏門脇に待機しながら、ターゲットの基礎情報を読み返
していた。
そのうえで、写真の中の彼女とイメージを重ね合わせていく。
陸上に打ち込んでいるせいか、首筋をすっきりとさせたショートカット
の髪型。
健康的な小麦色の肌をした面長な顔立ち。
勝気な性格を表す、やや縦長の意志の強そうな瞳。
薄いながらもぷっくりと膨らんだ、穢れを知らない桜色の唇。
「天は全ての者を平等に……って、わけではなさそうだな」
初めてこの写真の少女を目にした時からそうだった。
三十路に差し掛かったこの俺が、こんな乳臭い少女に惹かれるなど……
有り得ない!
そう、有ってはならないはずだったが、胸の中がざわつくのを抑えられ
なかった。
はるか昔に感じた淡い恋心を思い出させる、そんな美少女だった。
だがな、ここからは真剣勝負のビジネスだ。
元興信所勤めの俺が、ターゲットにほだされてどうする?
それに、この娘の父親は『篠塚 唯郎』
この国の金融界をリードする、時田グループ副社長の娘さんだ。
課長と副社長の関係なら、俺も耳にしている。
それだけに、今回ばかりは、相当性根を入れて努めないとヤバいかもし
れん。
俺も、命じた河添課長も……
「おっ、出てきやがった」
夕暮れ時の校門から姿を現したターゲットに、俺は身体を起こすと尾行
を開始する。
迫る暗闇と同化させるようにして。