(二十三)
八月 十二日 火曜日 午後一時三十分 吉竹 舞衣 私は、大学の講義が終わり、ひとり駅へ向かって歩いていた。
帰り際、何人かの友人に遅めの昼食を誘われたけど、とても今はそんな気になれない。
「有里……大丈夫かな……」
そう、ぽつりとつぶやき、深い溜息を吐く。
頭の中は、有里が心配……これで、埋め尽くされていた。
講義が始まる直前に、友人の上條理佐が、そっと耳打ちしてくれた。
校庭で有里らしい女性が倒れて、付き添いの男性とタクシーで病院へ向かったと……
その時の私の表情、尋常じゃなかったみたい。
隣で座っていた理佐が一言……
「舞衣、大丈夫? 救急車呼ぼうか」って言ったくらいだから……
「……有里」また、彼女の名前をつぶやいて、道端で溜息を吐く。
普段通りの帰り道ということと、考え事をしていたせいで、私の注意力は散漫になっていたみたい。
脇道の方から、うるさく打ち鳴らすベルの音が聞こえる。
その方向に目をやると、退けと言わんばかりの勢いで、全力で自転車を漕いでいるおじさんが……
気がついた時には、もう手遅れの距離だと思った。
もうだめッ! ぶつかるって……
目を閉じた瞬間、背中を誰かに押された。
危うく難を逃れた私に、自転車の主は、捨て台詞を残しながら走り去って行く。
ありがとうございます……おかげで助かりました。
……あら? あなたは……?!
……確か、以前……有里と一緒にいた方ですよね。
そう、大学の教育科棟で……
私と有里が会っていたとき、寂しそうな顔で佇んでいた。
私のこと……覚えています……?
……あの時は、失礼しました。
思わず取り乱してしまって……
あの子……ううん、有里の気持ちも考えずに……私って最低ですよね。
あっ、そうだ!
……教えて下さい!
有里は……有里は、大丈夫なんですか?!
校庭で倒れて、病院へ運ばれたって聞いたから……
…… ……
……えっ? ……軽い熱中症……?
……それで、少し休んだら良くなったのね。
…… ……
……よかった。
大したことがなくて……本当によかったぁ。
それで、今は、自宅で休んでいるの……?
…… ……
本当は今すぐに、お見舞いに行くべきなんだろうけど……
あなたも知っているんでしょ?
私と有里の関係……
……それで。
何かの手助けになるかも知れないから、まずは、私に自己紹介して欲しいって……?
ええ、いいですよ。
ただ、その前に……
そこのパン屋さんに、寄っても構いませんか?
私、安心したせいで、急にお腹が空いてきて……
以前は、買い食いなんて行儀の悪いことをしてはいけませんって……有里にも注意したことがあったけど……
彼女、私の目を盗んでは、ここのパン屋さんを利用してたわね。
……ふふふ……今日は、特別です。
私も、買い食いすることにしました。
……あなたも、一緒に食べませんか?
話は、それからと言うことで……
私は、2階のホームに上がると、日陰のベンチに座った。
普段から、学生専用の駅と化していることと、午後2時という時間帯のせいか、ホームに立つ人影はほんの数人といったところ……
次の電車が来るまで、15分……
今のうちに自己紹介しましょうか。
私の名前は、吉竹舞衣(よしたけ まい)。
高校を卒業後、今年の春からこの大学に通っているわ。
学科は、有里と同じ教育科。
お互い、小学校の教師を目指しているからね。
家族は、父、母、私の3人家族。
他に聞きたいことは……?
私の容姿?
それは……あなたの見ての通りだと思うけど……
……うーん。難しいわね。
髪はストレートな、セミロング……
それを自然な形で肩先に流している。
顔立ちは、やや面長で……
以前、有里が、居間に飾ってある日本人形を見て、まるで舞衣みたいって言ったことがあるから……
……そんな感じかな。
確かに、眉は細いし、目も細め……
それに肌も白いから、和風美人ってことにしておいてもらえる……?
よく友人は、あどけなさを残す有里に比べて、あなたは、清純な大人の女性の顔立ちだって、言ってくれるけどね。
……でもね、これは有里には内緒にしておいてね。
なに、スタイルも説明するの……?
うーん、どうしようかな?
……ふふふ……冗談よ。
あなたは、特別の存在みたいだから教えてあげるわ。
身長は、有里よりやや低めで159センチ。体重は秘密……
言っておくけど、自分では、バランスの取れたスタイルだと思っている。
まあ、自称だけどね。
スリーサイズも教えられないけど、バストは、有里より大きいわね。
彼女、私の胸を見て羨ましがっていたから……多分そうだと思う。
あと、有里との関係は説明しないといけないわね。
彼女とは、高校で知り合ったの。
私、中学卒業と同時にこの街に引っ越してきたから、高校に進学しても知らない人ばかりで……
中々周囲に融け込めずにいたわけ。
……性格?
……そうね。
どちらかというと、ひとりで本でも読んでいる方が好きだし、ちょっと引っ込み思案かもね。
そんなとき、最初に声を掛けてくれたのが、有里だった。
彼女は、明るくて運動神経が良くて、おまけに面倒見が良くて……
お陰で私も、クラスのみんなと打ち解けることが出来たの。
そんな、まるで正反対のようなふたりだったけど、意外と気が合って、私と有里は無二の親友になっていった。
そして、どちらが先に言い出したのか忘れたけど、私と彼女は、教師になる夢を語り合っていたの。
その後は、あなたも知っているでしょう。
ふたりでこの大学を受験、無事合格して、現在に至るというわけ……
これで、大体理解出来たかな。
……あっ、電車が入って来たわ。
あなたも、時間があればどう……?
家まで案内するわよ。
私は、電車を降りると、真っ直ぐに自宅に向かった。
このあたりは、有里の住む下町に比べて、どの家も立派な門構えを備えた、閑静な住宅街といったところ。
そして、私の住んでいる家もまた、ご多分に漏れず、ちょっとした門のある洒落たデザインの造りになっている。
ここに越して来たのは、私が中学校を卒業した頃……
父の亘は家族の将来とか何とか理由をつけて、この家を購入した。
昔から、見栄っ張りな人だった。
どうせ、経営者の親族という立場上、それなりの住宅をと、考えたのに違いない。
私は今でもそう思っている。
でも私は、以前住んでいた所の方が好きだった。
家は小さかったけど、周囲の人達は、優しく、大らかで……
何よりも、親身になって接してくれた。
どこか他人行儀のよそよそしさのある、この街の人たちとは大違い……
ごめんね。家まで案内するって、話しておきながら、こんな愚痴ばかり言って……
あなたも、不思議に思っているでしょう。
まあ、詳しいことは、外では話しにくいから……
さあ、中にあがって。
「……ただいま」
私は、階段の脇に鞄を置くと、リビングに入った。
「……お帰り……麦茶……冷やしておいたわよ」
気遣いのある言葉にしては、全然、覇気の無い声。
私が部屋にいることも興味無しといった感じで、中年の女性は、ソファーの背もたれに身体を預けている。
そして、虚ろな目付きでサスペンスドラマを眺めている。
……と、言うのも、テレビの中で繰り広げられる熱いセリフにも、ほとんど反応を示さないから……
一応、紹介しておこうかしら。
彼女が私の母親で、吉竹美沙子。
……ちょっと、変わっているでしょ。
私は、ガラスコップに麦茶を注ぐと、一気に飲み干した。
思った以上に、喉が渇いている。
「お母さん。ガレージにお父さんの車が有ったけど……いるの?」
私は、飲み終えたコップをテーブルに置きながら、天井を指差した。
「……書斎にね……珍しいでしょ」
母は、テレビから目を離すこと無く、覇気の無い返事をした。
「私、着替えてくるわね」
……やはり、返事はなかった。
私は、なるべく足音を立てないように、階段を上った。
別に気を使っているのではない。
……会いたくなかったから。
自分の部屋に入り、ふーっと息を吐き出す。
そして、聞きたくも無いのに耳を澄ましていた。
低く響く打楽器の音と、主旋律を奏でる弦楽器の音色……
父が好んで聴くクラシックの曲だ。
窓を全てひらいた。
部屋に充満する、熱く淀んだ空気は放出され、幾分爽やかな空気が流れ込んでいく。
同時に、外からの喧騒に音は支配される。
あなたには悪いけど、父に直接会っての紹介は勘弁してね。
……それに、有里から聞いているでしょ。
彼女がどう話したのか、知る由もないけれど……それが真実よ。
私も、あの男は嫌いだから……
それに、彼には愛人がいるの。
1か月の大半は、彼女のマンションで暮らしている。
この家にいるのは、月に3、4日ってところ……
それも、ほんの少し、顔を覗かせる程度……
家族揃っての食事なんて、ここ数カ月したこともないわ。
……そのせいで、お母さんも、変わってしまった。
昔は、優しくて、笑ったときの笑顔がきれいで、自慢の母だったんだけどね。
どんなに、立派な家を造っても、どんなに会社で出世しても、どんなにお金儲けをしても、私は、あの男を許せない。
でも、今の私には抵抗すら出来ない。
この家で生活している限り、ただの籠の鳥と一緒……
あなたにだけ、本当のことを言うわね。
実は私、有里と家族の方にどうやって贖罪をするか……
それで今、悩んでいるの。
確かに、悪いのは父……
でも、娘である私にも責任は免れないと思っているから……
そうだ、あなたに一つお願いしても、いいかしら……?
これからも、時間が有るときでいいから、私の相談に乗って欲しいの。
そして、有里のことをもっと教えて欲しい。
そうすれば、私の贖罪も叶いそうな気がするから……
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