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闇色のセレナーデ 第17話  少女の想いは、アールグレイにのせて


























【第17話】




「最初の男の人は、おじさんよりずっと若かったわ。多分大学生じゃないかしら。ちょっと不良ぶっていて、それなのに、いざ本番になるとオドオドするだけで、何も出来ないんだもん。わたしも今みたいに余裕なんてなかったから、一日で処分されちゃったの」

千佳は、見るとはなしにメニュー表を指でなぞると『アールグレイ』の処で止めた。

「二人目の男の人は、30才くらいのサラリーマンさんだったの。おじさんよりちょっと若め。見た目紳士な感じの人だったけど、わたしが服を脱ぐと顔付きが変わったわ。ライオンか何かみたいに吠えだして、メチャクチャに犯されちゃったの。でも2日目も、3日目もそんな感じで、結局4日経って用済みよ」

卓造は話し込む千佳に何度も頷いてから手を上げた。
年輩だが愛想の良いウェイトレスが、直ぐに気付き歩み寄って来た。

「え~っと……アールグレイとホットね」

「畏まりました。アールグレイとブレンドコーヒーでございますね」

ウェイトレスは、軽く一礼すると去って行った。
その後ろ姿を見送った卓造は、おしぼりの封を開けて顔をゴシゴシと擦る。

「やだぁ、おしぼりで顔を拭いたら、オジサンの仲間入りよ」

「オジサンの仲間入りって? 俺は充分に自覚のある中年オヤジのつもりだけどな」

千佳が眉を潜めて目で笑って、開き直った顔をしてみせた卓造だが、おしぼりを取り落とすようにしてテーブルに戻した。
丸いグラスの中で、溶けかけた四角い氷がカランと音を立てる。

「千佳ちゃん、それで……あの、今更になってなんだけど……」

「なによ、急にモジモジしちゃって? お手洗いだったら、お店の奥にあったわよ」

「いや、そうじゃなくて……どうして俺のことをそんなに?」

「俺のこと? なんのこと?」

とぼけた千佳の顔も可愛かった。
大き目の瞳をクリクリさせて、小鼻をツンツンさせて、下から覗きあげるようにして。

「ふふふ♪ おじさんったら、顔が真っ赤よ。そんなに気になるぅ?」

千佳が茶目っ気のある笑みを浮かべて、卓造は「ああ」と一言。

「おじさん、初めて出会った夜のこと覚えてる?」

「ああ、覚えているよ。1ヶ月前の夜のことだろ?」

さっきの年配ウェイトレスが、香り立つコーヒーカップとティーカップを卓造と千佳の前に並べた。
琥珀色と紅色の液体が二人の鼻腔をくすぐり、申し合わせたように手を伸ばしていた。

「背中に掛けてもらったコート、とっても温かった。それに嬉しかったな。この人、わたしのことを本気で心配してくれてるって。コートなんて羽織らせたりしたら、千佳の裸が見えなくなっちゃうのにね」

「……」

千佳は白磁のティーカップを手に、ほんのりと頬を染めて語った。
そして、そんな乙女心を悟られなくないためか、話し終えた後にニィっと笑う。

だが、卓造にその心遣いは無用である。
自ら口を開いておきながら、その男は声を失っていたのだから。

(この子は、俺のコート一枚のためにここまで! この後俺は、和也と組んで……いや、和也に操られるようにこの少女を……)

取っ手に指を通したコーヒーカップが、振動するように揺れている。
コーヒーを口にする前に卓造は、千佳の健気過ぎる想いと仕草に脳天を貫く衝撃を味わっていた。
まるで雷にでも打たれたようである。

「あ、わたしね、お父さんとは血が繋がってないの。中○生になった時に、お母さんが再婚することになって、そのお相手が今のお父さんだったわけ。その時にあの男とも出会ったわ。確か大学生だったと思う」

そんな卓造の様子に気付いた千佳が、勝手に話題を変えた。
目線をテーブルの端に落としたまま薄幸な身の上を語ると、ティーカップを口に寄せる。
その上で、芳醇な紅茶の香りを楽しむように唇に当てると一呼吸置いた。
そして、カップを僅かに傾げると、ほんの少し口に含んだ。

「おいしい……」

「そ、そうか……千佳ちゃんの口にあって嬉しいよ」

唸るように声を放った卓造は、固い笑みをこぼした。
千佳に倣って自分もと、手にしたコーヒーカップを口に運ぶとズズッと啜った。

おいしいかどうかなど、今日に限っては区別が付かなかった。
いつもの通い慣れた喫茶店で、いつものマスターにウェイトレスに迎えられて、いつもの奥まった二人用の席で、いつものブレンドコーヒーを飲んでいるのだが……

「それでね。お父さんって、ちょっと厳しい人なんだけど、千佳がテスト勉強とかしてたら、『頑張ってるか?』って、お母さんが作ってくれた夜食を持ってきてくれたりするんだ。それで夜食を一緒に食べたりして、学校のこととかおしゃべりして。そうしたら、お父さんはとっても嬉しそうな顔をするの」

「そうなんだ。千佳ちゃんのお父さんって、いい人なんだね」

「うん、そうなの。だからわたし……あの男にレイプされて、『もし誰かに話したりしたら、お父さんとお母さんをバットで殴り殺す』って脅されて、逆らえなくなっちゃったの」

せっかく話題を変えた筈なのに、口を開いて登場するのは鬼畜な兄、和也のことばかりである。
千佳はティーカップを手にしたまま、さざ波を立てる紅い液体に目を落としていた。

「警察とかに相談は?」

「うん、それも考えたんだけど、やっぱり出来なかった」

「どうして? 警察だったら、お父さんの会社のこともあるし、きちんと対応してくれたと思うけどな」

「だからダメなの。その『小嶋技研』のせいで、警察が動けばマスコミだって動いちゃうでしょ? お兄ちゃ……ううん、あの男は成人だから名前とか全部新聞に載せられるし……」

卓造は千佳に紅茶を促そうと、飲みかけのコーヒーを一気に煽ってみせた。
けれども最後の一滴を飲み干すまで味は分からなかった。

「それとね……これは、お父さんとお母さんが話をしているのを立ち聞きしちゃったんだけど、副社長の緒方さんって人が最近、常務さん達と一緒になって、お父さんの決めた案件に反対ばかりしているらしいの。ううん、他にも次の株主総会の時には出資銀行とか、大株主とか……」

「そうなの? だとしたら……その副社長の緒方さんがお父さんを追い落として、社長の座を狙っているかもしれないね」

予想を交えた卓造の話に、千佳が大きく頷いた。
良家のお嬢様らしく優雅に紅茶を飲んでいたのを、卓造を見習うかのようにティーカップを口に運び豪快に啜った。

「そろそろ時間かな。行こうか、千佳ちゃん?」

「……そうね。行かないと、いけないよね」

喫茶店の窓から眺める景色は、薄い闇に包まれ始めていた。
卓造は、気落ちした顔をする千佳を促すと席を立った。

今夜は、あの男が直々に待っているのだ。
和也から直接卓造宛てにメールが届いていた。

(巨大な城だ。とてもじゃないが、大手門をこじ開けるのは無理だろうな。だとしたら、搦め手からいくしか……)

リストラ寸前の冴えないサラリーマンは、その時、無謀でしかないプランを胸に秘めていた。
気弱で優柔不断な男は、片思いでしかないであろう恋心の鎧を纏って、人生初の大博打に出る覚悟を決めたのだ。

「お二人ご一緒で構いませんよね? 900円になります」

その背中に訊き慣れたマスターの声が届いた。
視界の端で、取り忘れた伝票を手に料金の支払いを済ませる千佳の姿も。

卓造は着込んでみた鎧の重さに押し潰されるように、大げさに肩を落としていた。