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オブラートに包まれたふたり
















(17)



        黒川信人の視点


        夕食にしては少し早目の時間が幸いしたのか、思ったより店の中は空い
        ていた。

        「お待たせしました。牛丼大盛りと並盛りになります」

        カウンター席に座った俺と美里の前に、見慣れたどんぶり鉢がふたつ並
        んだ。
        アルバイト店員のお姉ちゃんは、伝票を丸めて円柱の筒に差し込むと、
        さり気なく俺と彼女の顔を見比べる。
        そして、薄い眉毛をピクピクっとさせてから立ち去った。

        「間違わなかったね。牛丼大盛りと並盛り」

        「当たり前だろ。男と女が並んで座ってオーダーすれば、世間一般常識
        的にはな」

        男と女という単語を口にして、腹の中がぎゅっと絞られる。
        同時に、世間一般常識を理解しない美里が、メニューも見ずにメガ大盛
        りを頼もうとしたことも。

        「昨日のディナーは、確かココイチ番のカレーだったよな。その前の日
        は……えーっと……?」

        「ヤヨイ軒よ。私が『サバの塩焼き定食』で、信人さんが『サバのみそ
        煮定食』 忘れちゃったの?」

        記憶の欠けた部分を補うように美里が答えてくれた。
        話しながらも右手をカウンターの前へと伸ばして、大盛りの紅ショウガ
        を牛丼の上に乗せている。

        「でもな、美里。本当にこんな店でよかったのか? もっとこう、お洒
        落なレストランで……」

        俺は『こんな店』だけ声のボリュームを下げると、美里を覗いた。

        「信人さんったら、なにを気にしているのよ。わたしはこういうお店が
        好きなの。それに、こんな服装で高級レストランに行ったりしたら、間
        違いなく浮くわよ。制服を着た女子高生と、ヨレヨレのスーツを着たオ
        ジサンなんて」

        美里は、『オジサン』のとこだけボリュームを上げた。

        「おいおい、俺はまだ30になったばかりだよ。オジサンはないだろ」

        「なに言ってるのよ。世間一般常識では、30才は正真正銘のオジサン
        なの。それに、わたしはまだ17才だけど、20才になったら立派なオ
        バサンよ。女子高生の間の世間一般常識ではね。それより、信人さん…
        …?」

        醤油色をしたご飯を箸に乗せたまま、美里の表情が引き締まった。

        「信人さんの上司の河添課長さんって、そんなに仕事の出来る人なの?」

        「ああ。なんでも、時田グループ創設以来のスピード出世をしてきたら
        しいよ」

        「ふーん。そうなんだ」

        俺は納得するように頷く彼女を、ちらっと観察してから半分に減った牛
        丼に箸を突っ込んだ。

        1週間前に衝撃的な出会いをした俺たちは、それ以降、毎夜ように肌を
        合わせている。
        初夜ほどではないが、小奇麗なホテルを探しては、お互いに求めあうよ
        うにセックスを繰り返してきた。

        恋人どうしは多くを語らない。
        そんなものかもしれないが、俺も美里もあの時のいきさつは、それ以上
        語り合ってはいない。
        不思議な暗黙の了解が、ダブルベッドの上では成り立っていた。

        「それで、その河添課長には奥さんはもういるの?」

        その代わり、共に食事をするときの彼女はいつもこんな感じだ。
        俺のことは3割。残り7割は上司の河添課長のことか、時田グループの
        内情。上層部役員の性格から、人間関係まで。
        根掘り葉掘り聞き出すというよりは、あくまで興味本位といった感じだ
        が。

        「いや、奥さんはいないな。ひとりでマンションで暮らしている。ただ、
        付き合っている女性はいるよ」

        「それって、どんな女性?」

        やっぱり女の子だな。真顔のままだが、彼女の目の輝きが増した。
        でも真実を言えば、河添課長とその女性の関係は、お付き合いというレ
        ベルのものではない。
        そのことは、課長本人から聞かされている。

        「確か……岡本……典子って言ったかな。俺は写真でしか見たことはな
        いけど、とっても美しい女性だったな」

        だからといって、洗いざらい話すわけにはいかない。
        会社のことも、河添課長のことも。
        少なくとも、俺と課長との関係が壊されないうちは……

        「やっぱり、そうなんだ。あっ! ううん、なんでもない」

        だが、今夜の彼女はこれ以上聞いてこなかった。
        そして、残りの牛丼を食べ終えるまでの間、気まずいくらいに沈黙した
        時間が流れていた。

        なにか俺は、マズイことでもしゃべったのか?
        美里は、岡本典子のことを知っている? いや、まさかな。



        「そろそろ出ようか?」

        空いていた座席が急速に埋まりはじめて、俺は美里に声をかけた。
        店に入ったときには、彼女が主導権を握っていたのに、今は俺が彼女を
        リードして歩いている。

        「あのホテルでいいかな?」

        大通りから一歩入った所にある、ちょっと派手めな照明の建物を俺は指
        差した。
        隣を並んで歩く美里が、俯いたままコクンと頷く。

        「じゃ、決まりだな。行こうか」

        俺は自分でも驚くほど下品な声を出していた。
        さっきよりも歩幅を拡げて、彼女の手を引っ張るようにして歩いていた。

        頭の中では、美里の瑞々しいまでの肢体がビデオ映像のように再現され
        ている。
        それに影響を受けて、下腹部がパンパンに膨張している。

        俺は美里が本当に好きなのか?
        それとも、彼女の身体を……?

        バカバカしい謎かけに、顔が勝手に苦笑いを浮かべる。
        その一方で、冷静な信人が今の気持ちを解説してみせる。

        彼女を包むオブラートが溶けない限り、こんなものさ。
        友達以上、恋人未満。
        まあ、俺も美里と一緒だ。心も身体もオブラートに包まれているがな。

        だが、そろそろ限界だな。このオブラートも。
        尊敬する上司と、恋人未満の彼女。
        今夜が勝負時かも知れない。