(20) 篠塚美里の視点 わたしと信人が心から結ばれてから、数日が経っていた。
「ねえ、信人。いつになったら紹介してくれるのよ。あの男に」
アルファベットのMの字がトレードマークのお店で、わたしは2段重ね
のハンバーガーをパクつきながら聞いた。
向かい合わせに信人が座っているのに、顔をガラス窓に向けたまま。
「う~ん……それなんだけど……」
だけど、今日も信人の返事は歯切れが悪かった。
昨日だって、おとといだって、その前の日だって。
「わかっているわよ、わたしだって。その……河添に会うってことがど
ういうことかくらい。でも、時間がないのよ。典子お姉ちゃんは今も、
あの男に苦しめられているんだよ。きっと今夜だって……」
「ああ、多分……」
「多分って? それだけ?! 信人だって知っているでしょ? だから、
わたしがなんとかしないと……!」
「でも……やっぱり危険だ。それに俺は美里のことを……」
真黒な窓ガラスの外側を何台もの車が通り過ぎていく。
そのライトが反射して、わたしの苛立つ顔を照らした。
信人の顔には、深い苦悩の縦じわが刻み込まれていた。
「もうっ! じれったいわね。男ならはっきりしなさいよ。まったくっ!」
思わずテーブルをドンと叩いて、隣のカップルから笑顔が消えた。
背中の席から聞こえていた弾んだ会話が、急に途絶えた。
とっても気まずい雰囲気。
わたしも信人も、周囲のお客さんだって。
「決めたわ、わたし。今からあの男に会いに行く!」
だけど今夜の美里は、自分の心を押さえられないの。
食べ残しのハンバーガーを口の中に放り込むと、席を立っていた。
「おい、美里。今から会いに行くって……冗談だろ?」
「ううん、わたしは本気よ」
窓ガラスの美里は、顔を強張らせたまま頷いていた。
「申し訳ありませんでした!」
お店中に響く声とともに頭を下げたわたしは、信人を置き去りにして飛
び出した。
週末の人出で賑わう繁華街で、タクシー乗り場を目指して歩き始めた。
「待つんだ、美里。頭を冷やすんだ」
息を切らした信人が肩に手を掛けた。
わたしは無視して歩き続けた。
「今から事務所に行ったって、河添課長はいない」
「だったら、あの男のマンションに行くわ。住所くらい自分で調べたから」
振り返って、信人の言葉に素早く反応して、また歩き始める。
「違うんだ、美里。今夜、あの男は……」
信人は言葉を切った。そして、続きの言葉を吐き出した。
「詳しいことはタクシーに乗ってからだ。それと……俺も付き合わせて
もらうからな」
やれやれって顔をした。
ちょっと上目目線で頭をぼりぼり掻きながら。
「あ、当たり前じゃない。信人はわたしのパートナーでしょ。そんなの
常識よ」
だからわたしは、とっても嬉しかったのに、ほっぺたを膨らませた。
でもこれだけだったら、ツンデレした女の子みたいだから、悪魔っ子の
顔も。
「あとパートナーさんにお願い……タクシー代も頼むわね♪」
わたしと信人は空車のタクシーを見つけると乗り込んだ。
「すいません、花山までお願いします」
信人が行き先を告げて、車が静かに動き始めた。
「花山って信人。料亭の花山のこと? ふーん、あの男ってそんな処で
ディナーしてるんだ。豪勢ね」
「まさか。いくら課長が俺たちより手取りが良くたって、そんな処で毎
日食事をしてたら間違いなく破産だな」
「だったら、そんな料亭でなにを?」
信人の顔が急に曇るのを感じて、わたしは声のトーンを落とした。
それに花山って料亭は、ただお料理を出すだけじゃない。
いかがわしいことも裏でしてるって、わたし達学生の間でも常識になっ
ているから。
「典子お姉ちゃんね」
「ああ、そういうことだ。だからキミには伏せておきたかった」
「どうしてよ? わたしと信人の間では、もう隠し事はしないって決め
たじゃない」
「それでもだ。今夜だけは……さっきまで俺はそう考えていた」
「でも話してくれるのね?」
信人は目で頷くと顔をわたしの方に寄せた。
そして、内緒話のように声のボリュームを下げて話し始めた。
「美里も知っているよね? 俺と河添課長が所属する『時田グループ建
設部2課』が工業団地を整備している事業のこと」
「ええ、もちろんよ。わたし、河添のことを知りたくて建設現場を覗き
に行ったからね」
「ああ、そうだった。で、その整備事業のことなんだけど、1区画だけ
地主の反対運動のせいで手つかずになっているんだ」
「ふーん、そうなんだ」
「このままだと、工期が遅れてまずいことになる。最悪、『建設部2課』
の存続も危ういってね。それで河添課長が動くことにした。今夜花山で」
「今夜花山で? なにを……するの?」
「そ、その……岡本典子さんを使って、反対派の人たちを……」
信人が辛そうに目線を下にする。
わたしは心臓が破裂しそうなのに、続きの言葉を誘った。
「典子お姉ちゃんの身体を使って、反対派の人たちを抱き込むつもりな
のね」
「ああ、きっと彼女は、口にはできない恥ずかしいことをさせられてい
る。あの人ならやりかねない」
「許せないよ! 絶対に!」
脳裏に、公園で肌を晒す典子お姉ちゃんが浮かんだ。
悲痛な表情で男の言いなりになる典子お姉ちゃんの姿に、どうしようも
ない怒りが込み上げてくる。
自分の野望のためか知らないけど、どうして典子お姉ちゃんを巻き込む
のよ?
それに復讐したいのは、美里のお父さんなんでしょ?
だったら、美里の身体を自由にすればいいじゃない。
わたしは平気だから。
裸にされて、アソコを覗かれたって、怖い顔をして睨みつけてあげるん
だから。
セ、セックスさせられたって、気持ちよくなんかなってあげないから。
「お客さん、着きましたよ」
タクシーが大きな門の前に横付けされる。
わたしは信人の手をギュッと握りしめていた。
お互いの手の温もりを感じながら、立ち塞がる建物を見上げた。
2階建ての古びた和風建築から漏れだす、ぼんやりとした鈍い明り。
この艶めかしい光のどこかに典子お姉ちゃんがいるはず。
河添といやらしい男たちの相手をさせられながら。
まるで悪の魔王からお姫様を助け出す勇者の気分。
伝説の刀も伝説の鎧も装備していないけど、美里にはとっておきの秘密
兵器があるの。
いざとなったらおじさんモンスターを、美少女うっふん♪攻撃で撃退す
るの。
「待っててね、典子お姉ちゃん。今助けに行くから」