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初体験 その後






















(十五)


八月 十一日 月曜日 午後十時三十分  早野 有里

   

        取り敢えず、危機は回避されたみたい。

        でも、あの人大丈夫かしら?
        あまりにもの咄嗟の出来事で、わたしにも何が起きたか良く分からない
        の。

        「……よくも、この私に……」

        ぼそっとつぶやくような声が聞こえて、そーっと振り向くと、憎悪の炎
        に染まった両目が……!

        やっぱり、大丈夫じゃないみたい。
        今さら、ごめんなさいって謝っても、許してくれそうもないよね。
        もしかしたら、わたし……殺されるくらい犯されるかも……?!

        ……でも、動けないよ。
        ……体力も限界。
        恥ずかしいくらいあそこが丸出しで、それなのに、太ももを閉じ合わせ
        る力も残っていない。

        「ご気分はッ……いかがですかッ!?」

        ほら、来たっ!

        気のせいだと思うけど、語尾が苛立っている。

        わたしは、残りの体力を振り絞って、何とか股だけでも閉じ合わせた。

        でも……もう無理。
        後は、ひたすら謝ってなんとか誤魔化そう。

        …… ……
        ……? ……?
        ……ん?
        まだ、何もしてこない……?

        わたしは、もう一度、そーっと振り返った。

        ……? ……?
        うーん?……?
        ……大丈夫……かな。

        あの人の自慢の息子。シュンとうつむいて小さくなっている。

        「安心なさい。今日はこれ以上、何もしません。
        それより、あなたの拘束を解かないといけませんねぇ」

        副島は、わたしの視線に気が付いたのか、自信喪失気味の息子を片手で
        隠してみせた。
        百パーセント信じたわけじゃないけど、選択肢も残っていない。

        「少し、触りますよぉ。いえいえ、その気はありませんから」

        男の両腕が、肩と腰の下に差し込まれる。
        思い出したくない嫌な感覚が肌を刺激して、思わず小さく叫んだ。

        「だからぁッ、なにもしません。信じて下さいよぉ」

        わたしの身体は、ソファーの上でひっくり返され、顔が、座席部分に押
        し付けられた。
        きっと、美しい背中のラインと、剥き身のようなお尻に、男の両目が釘
        付けになっているのに違いない。

        やっぱり、襲われるかも……? 
        ……まさか、お尻じゃないよね?

        脳裏にいけない想像が流れ込んできて……これって、過剰な自己防衛?
        でも、身体は勝手に、尻たぶの筋肉をキュッとすぼませて、太ももの隙
        間を埋めてしまう。

        「我ながら、ほれぼれする縛りですねぇ。ほら、ここを引っ張ると……
        見事なものでしょう」

        シュッ、シュー……シュー、シュッ……

        生地の擦れる音と手首に訪れる解放感……
        両腕に、久々の自由が戻って来た。

        ……?
        ……と、いうことは?

        「終わりましたよ、有里様」

        ……何も起きないの?
        ……わたしのお尻に触らないの……?
        …… ……

        良かったという気持ちと、なんでよって思う、いけない心……
        でも、身体は勝手に緊張を解き、お尻の筋肉を緩ませた。

        …… ……
        …… ……
        ……パッシーンッ!!

        「ヒィーッ! イヤーッ!」

        肌を打つ乾いた音と、乙女の悲鳴!
        お尻に拡がる惨めな痛み。

        卑怯よ、今頃叩くなんて……それも、思いっきりッ!

        「あっ、これは失礼。つい、うっかり……ははははッ」

        わたしは、うつ伏せのまま、キッと睨みつけて……すーっと目をそらし
        た。
        背筋に冷たいものが走る。

        顔は、笑っているのに……目は笑っていない?
        冷たい……そう、初めて会ったときのあの目……

        これ以上、目を合わせるべきではない。

        わたしは、慌てて顔を伏せて、縄に傷めつけられた手首を愛おしそうに
        撫でさすった。

        そこには、深く刻み込まれた何重にも渡る縄目の跡……
        剥がれた皮膚の下から、血がじっとりと滲み出している。

        「ごめんね……」

        じっと見ていると無性に悔しくなって、まぶたから、また水滴が流れ落
        ちた。

        「あなたの手首の痛々しさ……そそりますねぇ。
        2、3日で傷跡が消えてしまうのが、実に惜しい。
        どうせなら、生傷の絶えない肌をさらすのも、これまた一興ですがね……
        ククククッ……」

        いかにも、この人らしいサディスティックな言葉……

        わたしは心をなだめて、傷ついた手首を男の性的な視線から逃すように、
        ふくらみの下に仕舞い込んだ。

        「ところで、いつまでそんな姿を晒しているのですかぁ……?
        いい加減服を着ないと、風邪を引きますよぉ」

        副島は、脱ぎ捨てた下着を身に着けながら、うつ伏せのまま動こうとし
        ないわたしを、興味深そうに見下ろしている。

        「ほっといよ。行為が終わったのなら、わたしには構わないで……! 
        もう少し……こうしていたいのッ!」

        「ふふふっ……変わったお嬢さんですねぇ。ただ、身体には注意して下
        さいよぉ。何といっても、あなたの行為次第で、お父さんの寿命が変動
        しかねませんから……」

        なにを言われようと、今はこうしていたいの……

        鉛のように重たい手足も休ませてあげたいし、その間に、火照った肌を
        エアコンの風が、心地よく冷ましてくれそうな気がするから……

        でも、これは言い訳かも……
        本当は、男に見られながら下着を身に着けるのが恥ずかしいから。

        行為の後、ベッドからそっと抜け出して、服を身に着ける彼女……
        それを知っていながら、背を向けて寝た振りをする彼氏……

        女の子なら、こういう男性に魅かれると思うけどね。
        ……この人には、絶対無理だろうな。

        それとね。さっき、気が付いたんだけど……わたし、お洩らししたのか
        な?

        腰の下に小さな水溜りがあって、それが太ももにひっついて気持ち悪い。
        ……別に、匂わないけどね。

        「有里様、そのまま寝ていても構いませんが、今晩はどうされますぅ?」

        またなにか言ってる……
        そんなに裸で寝ているのが、気になるのかしら……?

        ……?……今晩……?
        ……だめ、頭がもやもやしてて、今は何も考えられない。

        「なんなら、タクシーを呼びましょうか? 今からだと、11時過ぎに
        は帰れると思いますが……」

        「…… ……」

        「どうされますぅッ!」

        副島が苛立っている。

        ……今晩って言ったよね……
        ……お母さんには……会えないよね……
        こんな顔見せたら……笑顔を作っても、悲しませることになるかも……

        「……あのぅ、このまま、泊まってもいいですか……?」

        「それは、構いませんが……」

        副島は、わたしの心を掴みかねているみたい。
        ……やっぱりこの人、女心が分かっていない。

        「まあ、いいでしょう。分かりました。そのように手配致しましょう」

        「ありがとう……ございます」

        なぜか、お礼の言葉が素直に出なかった。

        「後のことは、あなたを案内した男にでも聞いて下さい。
        連絡しておきますので、しばらく待ってもらえれば来ると思いますから……
        ……ではお先に、有里様……」

        時間を気にしているのか、それとも機嫌が悪いのか……
        やや早口に要件だけ伝えると、副島は後ろ手を振りながら、わたしを置
        き去りにして部屋を後にした。



        「あーあ、行っちゃった……」

        扉が閉まり、静けさを取り戻した応接室に、わたしだけが取り残される。

        散々傷めつけられたのに、心には薄もやのような安堵感だけが広がって
        いる。
        屈辱・恥辱・恐怖、もっと、いろんな感情が湧き起ると思ったのに、も
        っと、もっと辛いはずなのに……涙が出てこない。

        ……どうして? ……どうして……?! 
        ……もう、涸れてしまったの……?
        テレビドラマだったら、こんなシーンで悲劇のヒロインは号泣するのに、
        涙がないと出来ないじゃない。

        「ふふふっ……ははははっ……」

        なーんか、おかしい。

        急にバカバカしくなってきて、そうしたら……睡魔の顔がこっちを見て
        いる。

        やっと終わったんだし、ちょっとだけ休もう。

        わたしは、気だるく少し心地よい気分で、両目を閉じた。





副島と松山 ふたりのライバル























(十六)


八月 十一日 月曜日 午後十時四十分  副島 徹也

   

        ……ガシャンッ……!!

        私は、自分で閉めた扉の音に更に苛立った。

        「よくも……この私を……ッ!」

        続きの言葉を何とか封じ込めると、ふっ切るように足早に歩き始めた。

        今なら、もう一度……!
        もうひとりの私が、そそのかしてくる。

        確かに、あの時はそう考えていた。
        動くことすら出来ずに股間をさらしたままの小娘など、なにも躊躇する
        必要などなかった。

        ……だが、動けなかった。
        いや、ある物体のせいで動けなかった。

        黒いレンズは、有里の痴態を撮影する役目を負うと共に、監視カメラの
        役割も果たしている。

        ……危なかった。
        あのまま膣中に出していたら、自分は間違いなく能力なしとして消され
        る。……あの男なら、やりかねない。


        「これは、これは……遅くまでのお仕事……御苦労さまです」

        背中越しに、皮肉混じりの声を浴びせられ、私は振り返らずに立ち止ま
        った。

        この声は確か……松山……?!

        「美少女の肌は、いかがでしたか……?
        よろしければ、ご感想など……クックックックッ……」

        私が黙っているのを幸いに、一方的に話し掛けてくる。
        わざと怒らせて感情を爆発させたいのか、それとも……?

        「どうされました……? 私には話すことなど無いとでも……」

        相手にされないことに苛立ったのか、声質に不満が見え隠れしている。

        ふふふふっ……

        ここは、彼に感謝した方がいいかもしれない。
        不思議なことに、さっきまでの苛立ちが嘘のように静まっている。

        「ああ、これは失礼。……つい、考え事をしていまして……
        それより、松山先生。こんな所で、何をしているのです……?
        あなたの役目は、早野有里の説得までのはずですが……
        それとも、私に何か用でも……?」

        もう大丈夫だ。

        私は冷静沈着な、本来のしゃべりに満足した。

        それでは、聞かせてもらいましょうか……松山先生……

        嬉しさを押し殺しながら振り返り、男の目に視線を合わせる。

        「いえいえ、ただ……通り掛かっただけですよ。
        あまりに、副島様が難しい顔をしていたものですから……つい、気にな
        りましてね……」

        さっきまでの、主導権を奪っていたかのような饒舌はどこへやら……
        声がしどろもろに成り始めている。

        ここで一喝して、本音を吐かせるのも一興ですが、さすがの私も今日は
        幾分疲れている。

        ……仕方ありません。見逃してやりましょうか。

        「……そうですか……ご気遣い感謝致します。
        これからもお互い、健康には気を配りたいものですね。それでは、失礼」

        私の背中越しに、安堵する松山の姿が目に浮かぶようだ。
        丁度良いストレス発散になったかもしれない。

        ……だが、一つだけ気になることがある。

        私の後ろから声を掛けておきながら、表情など分かるはずがない。
        この男、監視でもしていたのだろうか?

        もう一度問い質そうと、後ろを振り返ったが、暗い廊下の先に松山の姿
        はもうなかった。



八月 十一日 月曜日 午後十一時三十分    早野 有里



        ……少し眠っていたのかな。
        時計の針が、11時三十分を指している。

        わたしは、室内に誰もいないことを確認すると、うつ伏せの身体を慎重
        に引き起こした。

        「ふーぅ……ひどい……」

        白い名残が肌の至るところに、ベットリとこびりついている。

        それに……やっぱり……
        お尻の下には、透明な怪しい水溜り……

        本当にお洩らししたみたいに見える。
        でも、その方が良かったかな……却って可愛らしくって……

        それなのに、鼻につくいやらしい女の匂いが、この水の正体を教えてく
        れる。

        ……全て消し去ってしまいたい……

        わたしは、テーブルに置いてあったウェットティッシュを数枚抜き取り、
        そっと股に挟んだ。
        そのまま肌に残る白い点を、一つづつ丁寧に拭いとっていく。

        ……これで、表面上はきれいになった。
        残るは……?!

        ティッシュの挟まれた下腹部を、怖々覗いてみる。

        ここもキレイにしたいんだけど……やっぱり勇気いるよね。

        わたしは恐る恐る太ももひらくと、丁寧に慎重に、秘部を清めていった。

        こんな姿、誰にも見せたくない。
        そう思うと、つい指先に力がこもってしまう。

        「……痛ッ……!」

        ティッシュの繊維が、哀しい傷跡を興味本位で舐め上げた。
        白が……薄紅色に染まっている。

        「……有里のヴァージン……」

        涸れ切ったはずの涙が、つーっと、ほほを伝った。

        「……うっ、うっ、ううぅぅッ、ううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅッ……わ
        あぁぁぁぁぁぁぁぁっ……」

        忘れていた感情が帰ってくる。

        わたしは、堪えていたものを全部出しきるように、大声で泣いた。
        大粒の涙が鼻に入り、むせ返りながらも泣いた。

        泣き声が外に漏れたって構わない。
        思いっきり泣いて忘れようとした。
        全部、忘れてしまいたかった……

        どれだけ泣いたのかも、はっきりと覚えていない。
        生まれて初めてかもしれない、こんなに涙を流したのって……

        ただ泣き疲れてじっとしているうちに、死んでいたはずの羞恥心が息を
        吹き返してきた。

        わたしは、今更ながらに顔を赤らめて、脱ぎ捨てた服の山に向かった。

        手早く下着を身に着ける。
        次第に、2時間前の少女に帰っていく……

        「……早野有里は、明るさだけが取り柄の女の子……
        どんなことがあっても、負けないからね」

        気恥ずかしかったけれど、声を出して言ってみた。

        元気が湧いてきた気がする……
        わたしって……単純なのかな……?



        ……そうだ。ちょっと驚かしてやろう。

        そーっと、背もたれの上から……「コンコンッ」……そして、「ワァーッ
        ……!」

        なによ、わかっていたの?
        ……面白くないわね。

        ……ところで、きみねぇ……
        わたしが、せっかく最後の試練は一緒にって、言ってあげたのに、ソフ
        ァーの後ろに隠れていたでしょ。
        ……この、裏切り者!って叫ぼうと思ったんだから。

        ……でも、本当は励ましてくれていたんだよね。
        わたしには、わかっていたよ。
        ソファーを挟んで、きみの気持ちが……

        痛みと恐怖に耐えているわたしを、一生懸命励まして……
        そして、快楽に落ちて行きそうなときには、必死に手を差し伸べてくれ
        た。

        あの時のきみがいなければ、どうなっていたのか……思っただけでゾッ
        とする。

        ……ありがとう……
        これからも助けてね……わたしのパートナーさん。


        …… ……?!

        ところで……今何時……?

        ……えっ、0時前って……!

        ちょっとぉっ! どうして、教えてくれないのよっ!
        お母さんに早く連絡しないと……

        うっかりしていたな。お母さん心配しているだろうな。
        ……もしかしたら、あきれて寝ているんじゃないかな。

        わたしは、急いで携帯を取り出した。
        ……起きているかな?

        「トゥルル、トゥッ……はい。……有里ぃっ……? 有里なのッ……?」

        懐かしいお母さんの声……

        早く話さないといけないのに、きっと声が震えている。
        わたしは心を落ち着かせて、祈るような気持ちで……

        「……あっ、お母さん……?
        ……ごめんね、連絡するのが遅くなって……
        …… ……
        ……うん……うん……
        ……それでね……今晩、友だちの所に泊ることにしたから。
        今っ……? その……友だちの家。
        ……えっ、女の子どうしだよ。
        まさか男の人が一緒だとか……?
        そんなこと……ないでしょ。
        …… ……
        ……うん……わかった……
        ……じゃぁ、明日の朝帰るからね。
        おやすみなさい……はぁー……」

        正直に話せたのは、最後の部分、明日の朝帰り……それだけ……
        それ以外は、ぜーんぶデタラメ……

        ごめんなさい、お母さん……今日、何度言っただろう。
        これからも、このセリフのお世話になりそう。

        ……やだなぁ、また涙が流れてきちゃった。

        さあ、ここはきみの出番……
        ちゃーんと、わたしを慰めるんだよ。




風変わりな用心棒 ちょっとだけいい話























(十七)


八月 十二日 火曜日 午前零時十分  早野 有里
  


        その人が現れたのは、わたしが携帯を掛け終わった直後だった。
        ノックの音がして、こっちの返事も待たずに、扉がひらかれていた。

        また、あなたなのね。
        立っていたのは、大柄で怖い人……
        そう、わたしをこの応接室まで、案内してくれた、この病院の職員さん?

        それにしても、この場所にいたようなタイミングの良さ……
        それに、突然扉をひらくなんて、失礼よね。
        少なくても部屋の中にいるのは、心に傷を負った悲劇のヒロインなのに
        ……

        わたしは警戒するように、失礼な人をジロリと睨みつけた。
        そして、あなた、そのカギ穴から覗いていなかったでしょうね……と、
        心の中でつぶやいた。

        なぜ、言い返さないのかって……?

        それは……わたしが、か弱い悲劇のヒロインだから……それは、冗談。
        本当は、ちょっと変わった人だったから。

        というのも、この部屋に入ってからずーっと、遠い目で一点をみつめて
        いる。
        その間、扉から少し中に入った場所で、全く動く気配なし。
        その上、相変わらず無口で無表情……
        何を考えているかも分からない。

        ね、変な人でしょ。

        仕方ないので、ここは下手に……

        「あのぉー……? 副島さんから、あとのことはあなたに聞けと言われ
        て……それで……シャワーを使わせていただけませんか……?」

        「…… ……」

        「あのーぅ……?」

        変な人は、初めて会ったときと一緒で、あごをしゃくって、部屋に隣接
        するバスルームを示した。

        「なんなの、その態度……ッ!」

        思わず、カッとなってつぶやいて、慌てて口を押さえた。

        どうして、一言もしゃべってくれないのよッ!
        機嫌でも悪いの……?
        それとも……性格? ……仕事柄?

        ……まさか、一緒にシャワーを浴びる気じゃ……ないでしょうね。

        そう思って後悔した。
        頭の中に、副島の顔が浮かんで、ニターッて笑い掛けてきたから。

        ……でも、この人……その気はなさそう……

        さっき部屋の中で固まっていたように、バスルームの入り口でまた固ま
        っている。
        表情も、まったく変化なし……

        ちょっと変わった人だけど、とんでもないことは……しない気がする
        ……これなら大丈夫かな。

        わたしは警戒心を解き、バスルームのドアをひらいた。

        でも、一言だけ忠告を……
        「覗かないでね……!」って……



        30分後、さっきと全く同じ場所で、無口な人は固まっていた。
        姿勢も全く同じ、直立不動状態……

        まるで、番兵か用心棒みたいな人……
        ちょっと不気味でおっかないけど、あの男とは全然違う。
        なんて言ったらいいのかな。純粋な人としての心を持っている感じ?

        ……この人なら、わたしのお願い……かなえてくれそうな気がする。

        ここは、さりげなーく、下から上目づかいで……

        「あのぉ、頼みたいことが有るんですけどぉ、聞いてもらえますぅ……?」

        「…… ……」

        「父の病室まで、案内して欲しいんですぅ。それとぉ……無理かもしれ
        ませんが……そこで一晩、泊らせて、ねっ……?」

        「…… ……」

        「あの……なにか反応してくれませんか……?」

        「…… ……」

        ……せっかく可愛く話したのに、損した。
        やっぱりこの人、固まったままの、ただの変人かもしれない。

        「やっぱり、だめですよね。ここは、夜間の付き添いは家族でも禁止に
        なっているし。ごめんなさい、わがまま言って……あの、ちょっと…
        …?!」

        無口な人は突然動き出し、わたしに背を向けると、部屋を出て入院棟の
        方へ歩いて行く。
        その背中は、まるで付いて来いと言っているよう……な、気がする。

        ……ちょっと、待ってよぉっ。

        わたしは、足音を立てないように気を使いながら、男の背中を追い掛け
        た。
        薄暗い病院の廊下に、足音だけがコツコツと小さく反響する。

        それにしても、この病院って、増築ばかりしているから中が迷路みたい。
        それに、消灯時間を過ぎているから、通路も病室も薄暗くて……
        天井から吊り下げてある案内札も、薄闇に溶け込んだようで確認のしよ
        うがない。

        ……ここは、どのあたりかしら?
        きみは、わかる? 

        …… ……?!

        ……えっ?! いないじゃないッ!
        全く……どこに行ったのよッ!
        もう、肝心なときには、いなくなっちゃうんだから……

        もう少し、ゆっくり歩いてよ。
        わたしがそう思っても、前を歩く人には気が付いてもらえない。
        それどころか、ストライドの幅を生かすように、どんどん加速していく。

        こんなところで見失ったりしたら……頭の中をいろんな想像が走り始め
        ている。

        オバケ、ユウレイ、オバケ、ユウレイ、オバケ、ユウレイ、オバケ、ユ
        ウレイ……

        「もう、待ちなさいよぉっ……」

        思わず出した声は、震えていた。

        わたしは、男に追いつこうと無理をして速足で歩いた。
        太ももどうしが、歩くたびにこすれるように触れあってしまう。

        ……やだぁ。また、痛くなってきた。

        腿のつけ根を、鈍い痛みが襲ってくる。

        もしかして……出血とかしてないよね……?

        あそこから流れ出た血が、下着を汚すのを想像して身震いする。
        そうしたら、自然と歩くスピードがゆっくりになった。

        ……どうしよう……はぐれちゃった。

        案の定、見失った。
        暗くて無音の世界に、わたしの息づかいだけを、耳が捉える。

        ……こわい……

        「コツ、コツ、コツ、コツ……」

        足音が聞こえる。
        それも、だんだん近くなってくる。
        通路の先に人影が現れ、足音に合わせるように近寄ってくる。

        ……まさか……
        オバケ、ユウレイ、オバケ、ユウレイ、オバケ、ユウレイ、オバケ、ユ
        ウレイ……

        「……だれ……?」

        小さい心細い声で聞いた。

        「…… ……」
        「……?!……」
        「……あなたは……!」

        目の前に立っていたのは、無口なあの人……
        心配して、戻って来てくれたのかな……?

        女の子をこんな怖い目に会わせて……出来の悪い用心棒さんね。
        そう思ったけど……どうしてかな……やっぱり嬉しい。

        わたしは何も言わずに、感情のない目に視線を合わせた。
        そこに、昔懐かしい、なにかキュンとなるものを感じた。

        ……わたし……この人と、どこかで……?
        ……でも、今は思い出せない。

        ……それにと言って、現実が悲しい思いを、胸に注ぎ込んでくる。

        ……多分、この人は知っていると思う。
        今夜、あの部屋で……わたしが何をさせられたのか……
        胸の中に、現実という名の酸っぱい悲しみが広がった。

        怖くて不気味な暗闇だけど、ほんの少し感謝しようかな。
        目が潤んでいるのに、気付かれなくて……ほんと良かった……

        その後、無口な人は、6階の個室フロアーまで、わたしを無事に案内し
        終えると、暗闇に溶け込むように去って行った。

        わたしは、消えていく男性に頭を下げながら、胸の中でつぶやいた。

        ありがとう……ちょった風変りなボディーガードさん。
        次に会うときには、何かしゃべってね……



        「さあ、お父さんの病室へ行かないと……」

        無口な人がいなくなって、今度こそ、わたしひとり。
        音も無く静まりかえった廊下は、うす暗くて、なんだか寒々しい。

        わたしは、非常灯の明かりを頼りに、暗い廊下を怖々と歩いた。

        「……早野勇……」

        お昼間とは違う雰囲気の中、父のネームプレートを見付けて、ほっと胸
        をなでおろす。
        そして、静かに扉を引いた。

        お父さん、会いにきたよ……

        暗い室内から、規則正しい寝息が聞こえてくる。
        そっと、足音を忍ばせながら、父の眠るベッドに近づいていく。
        昨日も、今日も会っているのに……無性に懐かしくて、せつない思いが
        胸を突き上げた。

        それなのに……顔を見るのが怖い……
        こんなに会いたかったのに……なぜかな……?

        わたしは息を止めて、枕元に寄り添った。
        そして、寝息を立てる父の顔を、そっと覗き込んだ。

        暗闇の中で、死んだように眠る父……
        痩せて精気を失った顔が、仄かに浮かんでいる。
        それでも、胸の確かな上下が、生を教えてくれた。

        わたしは、眠る父に話し掛けた。
        ただし、起きないように、小声でそっと……

        「……お父さん、ごめんね。こんな遅くに会いに来て……
        理由は……聞かないでよ。わたしにも、色々あるんだから……
        あ、お母さんとわたしが、昼間会いに来たこと、お父さん知ってる……?
        今日だけじゃない。毎日だよ。
        ……そう。この1週間、家族3人水入らず……
        みんな、応援してるんだから、お父さんも頑張らなくちゃだめだよ。
        …… ……
        ……わたしもね……がんばったんだよ。
        少しは、ほめてもらいたいな。
        ……それとも、怒られるかな。
        …… ……
        ……どっちでも、いいよ。
        わたし、お父さんの病気が治るなら……ううん、なんでもない。
        早く良くなって、また、家族一緒に暮らしたいね。
        それと……今日は、ここに泊っていいでしょ。
        お父さんと一緒に、いてもいいでしょ。
        ……そうしたら、明日からも頑張れそうだから……」

        ……父の寝顔が、揺らいだ。

        わたしは、音を立てないように丸椅子に腰かけた。
        張りつめた糸が切れたように、手足の力が失われていく……

        いつまでも、寝顔を見ていたかったのに、睡魔が迎えに来たみたい。

        ……わたし、ちょっと眠るね。
        おやすみなさい。お父さん……

        まぶたが自然に閉じられ、身体が壁に寄り掛かっていく。

        夢の中で奏でられていたのは、お父さんとわたしの寝息のハーモニー……
        けっして、歯ぎしりとイビキではないので……あしからず。

        ……どう。ちょった泣けた?





新たなコレクション候補























(十八)


八月 十一日 月曜日 午後十一時三十分  松山
   


        「勤務態度は、特に問題なしと……過去に、過失経験もなし。次は……」

        私は、ファイルに添付された資料と手元にある写真を見比べながら、最
        終候補者の選定作業をしていた。

        経歴、家族関係、容姿など、数多くの条件をクリアーしなければ、あの
        お方……時田謙一のコレクションに加わるのは、難しいだろう。
        それだけに、候補者の選定は慎重でなければならない。

        もう一度、数枚のスナップ写真に目を落とす。

        水上千里 21歳 看護士。

        ……この女でいく。
        私は、決断した。

        最後の決め手は直感……そう、勘ってやつだ。
        慎重なうえにも慎重を重ねて、決断は自分の本能で一気に……
        これまでも、このやり方でうまくいった。

        あとは、調教場所の確保だが……これがまずいことになっている。
        本来なら、あの薬剤倉庫が、うってつけの調教部屋だったが、ついこの
        前、副島がリフォームと称して、自分専用の部屋に改築してしまった。

        あの副島という男……私は好きになれないが、時田とあいつは、伯父、
        甥の関係にあたり、うかつに手を出すことが出来ない。

        ……どうしたものか?

        最悪の場合は、勤務時間内の職場調教というのも、考慮しないといけな
        いかもしれない。
        ……まあ、これも一興としておこう。

        それにしても、副島が担当する早野有里という少女は、実にいい素材だ。
        あの副島を、一瞬でも腑抜けにするとは……
        仕込めば、相当なコレクション価値を生むかもしれない。

        しかし、初日にしても少々手緩過ぎないか。
        あれでは、時間ばかり浪費することになると思うが……
        まあ、上手くいかないとなれば、それはそれで好都合だが……
        ここはお手並み拝見というところか。

        私も明日から忙しくなりそうだ。
        暇を持て余す副島と違い、私は医師としての顔もある。
        そこのところを、時田には理解して欲しいのだが……
        愚痴はもう言うまい。

        今は、この女のコレクション価値を、どれだけ高めることが出来るか?
        それによって評価を上げるしか、私には選択肢がないのだから……




八月 十二日 火曜日 午前八時一五分    早野 有里



        「行ってきます……」

        わたしは、送り出す人がいない玄関で、いつものようにあいさつした。
        お母さんが、パートの仕事に就いてからは、最後に家を出るわたしが、
        戸締りをするのが日課になっている。

        でも今朝のわたしの声は、自分でも驚くほど元気がない。

        玄関のドアを閉めて、鍵を掛ける。
        そして、自分の家を見上げるようにして、もう一度つぶやいた。

        「……行ってくるね」



        わたしは、ショルダーバッグを肩に掛け直すと、駅に向かって歩き始め
        た。

        ……んん?

        塀に寄り掛かるようにして、わたしを待っている人がいる。

        おはよう……

        昨日は御苦労さまって言いたいところだけど……どうして、いなくなっ
        たのよ。
        きみのせいで、あの後わたし……ひとりだけになって、メチャクチャ怖
        い思いをしたんだから……

        ……それで、大丈夫だったかって……?

        大丈夫でなければ、ここにはいないわよ!
        少しは反省して、責任とってよッ!

        …… ……ふふっ。
        ……なーんてね……冗談よ。

        じつはね、きみがいなくなった後に、ちょっとしたラブロマンスがあっ
        たんだよ。
        ……でも、教えてあげなーい。

        ……ところで、きみは眠れた?

        わたしは、お父さんと一緒に、朝までグーッて感じ。

        ……でもね。朝からこんなこと言うのも何だけど、気持ちはとってもブ
        ルーなんだ。
        歩きながらになるけど、ちょっと付き合ってくれる……?



        「初めての、朝帰り……
        テレビドラマだと、ここで頑固親父の愛の平手打ちって場面だけど……
        わたしの場合、肝心の頑固親父がいないものね……
        まさか、お母さんがパシーンッてのも、どうかと思うし……
        ……でも、他にやり方なんて……」

        通りの商店が、開店の準備に取り掛かる頃、わたしは、思い出したよう
        に独り言をつぶやいては、後悔するように大きく息を吐いた。

        あれぇ、誰か挨拶してくれたような……?

        ……失敗したな。
        明るい笑顔、明るいあいさつは、わたしの代名詞なのに……

        きっとその人、わたしに無視されたと思って、気を悪くしているんじゃ
        ないのかな。

        ここは、思い切って、商店街の真ん中であいさつしようかな。
        おはようございまぁーす! って……

        ちょっと考えたけど、やっぱり止めた。
        これをやれば、明るさを通り越して、選挙の人か、怪しい人のどちらか
        になりそうだから……

        「うーん。病院に泊ったのは、失敗だったかな……」

        わたしは再び、今朝の出来事を思い返していた。

        予定では、玄関を開けると同時に、「ただいま」の明るいあいさつ……
        そして、普段通りを装って階段を上がる。
        そのまま、自分の部屋に逃げ込む……
        後のことは……それから考える……

        そのシナリオが、最初から崩れてしまった。

        「お帰り。有里……」

        玄関を開けると同時に、先に声を掛けたのは、お母さんの方だった。

        その瞬間、家に着くまで何度も練習した表情も……会話のネタも……
        行動も……あっという間に頭から消え去っている。
        覚えているのは、うわずった声での、か細い「ただいま」……
        ……それだけだった。

        お母さんは、それ以上、何も聞かずに出迎えてくれた。
        優しくて……愛情に満ちていて……温かい眼差しに……
        わたしは、顔を合わせることさえ忘れていた。

        「お腹すいたでしょ。朝ごはん……出来ているわよ」

        「……うん」

        テーブルには、温かいご飯に、熱いお味噌汁、手作り感のあるちょっと
        焦げた卵焼き……

        当たり前の風景……
        普段と変わりない朝食……

        それなのに……なんだろう……
        心が潰れるほど痛い。

        「……お母さん……先に顔洗ってくるね」

        ……声まで裏返っている。
        冷たい水で、潤いだした瞳をごまかして、普段通りを意識しながら席に
        座った。

        ……何を話したかって?

        ……そんなこと、覚えていない。
        わたしは、それどころではなかったから……
        朝ご飯を食べるのが、こんなに難しいなんて思わなかった……

        結局、お母さんは何も訊かなかった。
        そして、わたしを置いて先に出勤していった。

        わたしは、無言で見送りながら、自分に問い掛けていた。
        安堵感と孤独感……どちらを選ぶべきなのかと……




八月 十二日 火曜日 午前八時二十分    副島 徹也



        朝の通勤客で込み合う駅の構内で、ひとのの男が太い柱に寄り掛かって
        いた。
        上下とも高級そうなスーツに身を包んでいるが、髪型、表情から推測さ
        れる職業は、女を相手にする夜の職業、ホストを連想させた。

        その男は、時計に急き立てられるサラリーマンを横目に、ズボンの両ポ
        ケットに手を突っこんだまま、なにも持たず、なにをするでもなく、た
        だ、目を遊ばせている。

        ……どうせ、夜の仕事の後、女でも引っ掛けて朝帰りってところだろう。
        少なくとも、彼に好奇な視線を送る者には、そう見えているはずだ。

        ……半分は、当たっている。
        その彼自身も、心の内で認めた。
        ……だが、後の半分は動機からしてかなり違う。

        私は、昨日の行為を思い出し、無性に早野有里に会いたくなっていた。
        別に純粋な恋心が湧いたわけではない。
        寧ろ、その逆の意味での恋心である。

        この私の我を忘れさせた小娘……
        結果的にでも、この私が足を踏み外すのを、食い止めた小娘……

        私は、自然に頬が緩んでいるのに気が付き、表情を引き締めた。
        そして、改札口から反対方向に目を走らせると、小さくうなづいた。
        視界の端から、男の気配が消える。

        私は、自分に注がれる好奇な視線に動じることなく、駅から真っ直ぐに
        延びる大通りに、目を向けた。

        「もう、そろそろでしょうか。
        待っていますよ、私の命の恩人。可愛いお嬢様……」




いつもと違う朝の風景























(十九)


八月 十二日 火曜日 午前八時四十分  早野 有里
   


わたしが、駅に着いたのは、通勤時間のピークをやや過ぎた頃だった。
駅の構内は、急ぎ足で頑張るサラリーマンさんに混じって、若さと体力を持て余した……要するに、わたしのような学生を、ちらほらと見かけるようになる。

ちょうど、上りの電車が出発した直後なのか、改札口は、降りて来る乗客で込み合っていた

わたしも、その間を縫うようして、いつものようにショルダーバッグから定期券を取り出し……?!
?!……ピタッと歩みが止まった。

後ろに続く若い男性が、不満そうに溜息を吐きながら、わたしの横をすり抜けて行く。

「どうして、あなたが……!?」

顔が一瞬で強張った。

ひとりの男が券売機の端から、手招きしている。
その空間は、エアーポケットのように人気がなくて、まるで人払いの結界でも張っているよう……

でも、ちょっと考えれば、理由は簡単に説明がつく。
この時間帯、乗客のほとんどは定期券を使用し、切符を購入する人なんて極少数だから……
その証拠に、わたしも定期券を持っている。
でも、それどころじゃないくらい、精神は追い詰められていた。

わたしは、誘われるままに、男の……ううん、副島の元へ歩いていた。

「有里様。おはようございます」

副島は、右手を胸に当てがい、頭を大きく下げて、テレビに出てくる執事のような態度で挨拶した。

わたしは一瞬、あっけに取られながら、早口でまくし立てた。

「やめて下さいッ! ……人が見ています。
それに、どうして、あなたがここに来るんですかッ……?」

わたしの地声が大きいのか、副島の態度に興味を惹かれるのか……
何人かのサラリーマンさんが、チラチラと、こちらを窺っている。

「そんな、朝から早口でしゃべらないで下さい。
……頭がキンキンしますよ。
……私は、朝が苦手なんですぅ」

「それなら、来なければいいでしょッ!」

「そうは参りません。私は、有里様の処女をいただいた者として、その後の体調を管理する義務があります。
……因みに、おま○この痛みは、取れましたかぁ?」

……今、何て言ったの……?!
みんながいる前で、また、禁断の単語を……!!

わたし、もう、この駅を利用できないかもしれない。
……ほら、見てよ。
この人のハスキー声に、また何人かがこっちを見ているじゃない。

「ちょっとぉッ、声が大きい。こんな人前で……よくも、そんな……
第一、そんな卑猥な質問……答えたくありませんッ!」

わたしは、改札口に背を向けて、顔を見られないように注意しながら、副島を睨みつけた。

「それは困りますねぇ。あなたは、私に従う義務があります。
……これを、お忘れですかぁ」

そう言うと、ズボンのポケットから折り畳んだ書類を取り出して、表彰式で賞状を渡すように、厳かに読み上げ始めた。

「えーっ、ひとーつ。私の時間、行動は、全て定められた管理者の管轄の下に……」

「……ちょっと、何の真似よッ!」

これって……わたしの契約書……!
……この人、こんなものを持ち出して……許せないッ!
それに、こんな姿を誰かに見られでもしたら……!?

「お願い。こんな所で読まないでよ……
…… ……
わかりました。答えるから……
あの……あそこは……まだ少し痛いです……」

目の周りが熱くなって、声を出そうにも喉が震えた。
そして、答えさせられながら、わたしの視線は周囲を走り回っている。

わたし、またこの男に苛められている。
公衆の中で、こんな恥ずかしい質問に答えさせられている。

「声が小さいですよぉ。それに、面白みのない答えですねぇ。
……まあ、いいでしょう。
それと、出血はしていませんか?
トイレで、ティッシュに血がつくとか……?」

「いえ、大丈夫です。出血もしていません。
……もういいでしょう……講義に遅れたくないのよ」

もう、こんなの嫌ッ! 
なんでもいいから早く理由を作って、この場を離れないと……

わたしは、わざと構内の時計に目をやり、乗客の列に戻ろうとした。

「待って下さいよぉ。
……今日は私も付いて行きます。
管理者は、契約者の生活全てを知る権利がありますからねぇ」

今、なんて言ったの?
この男と大学……? 
……冗談じゃないわよッ!
あー、想像しただけで、鳥肌が立ってくる。

わたしは、セールスを撃退するような目で、副島を睨みつけた。

「嫌よッ! そんなのお断りッ! 
第一、ここであなたに協力しても、わたしと父には、なんのメリットもないじゃない。
あなたとの行為は、病院のあの部屋だけで充分でしょ。
……それに、ここでは、あなたのだーい好きな撮影も、出来ませんよぉーだ……ふふっ……」

そう。嫌なことは、はっきりと……
そして、控えめ気味の嫌みを……
さあ今のうちに、早く逃げ出す口実を探さないと……

わたしは、この状況から脱出しようと、援軍を求めるように周囲をぐるりと見回した。
誰か知り合いでも……
でも、この男と一緒というのは困るし……

何か、良い材料はない……?
きみも、暇そうだから探してよ!

「いいえ、そうとも限りませんよぉ。
まあ、それは追々説明するとして……ちょっと切符を買うので、待っていてもらえませんか?
えーっと、小銭入れは……」

なによ、副島の自信過剰な態度は……
わたしは焦っているのに……ダメッ、イライラしてきた。

……ん? きみ、何を見ているの?

あっ、副島が財布から小銭を取り出そうと、中を覗き込んでる。

……そういうことね。
では、今のうちに……

わたしは、そーっと、男の背後に回ると、定期券を取り出した。
そして、一気にダッシュッ……!
目指すは、乗降客で込み合う改札口……

電光掲示板の文字が、目に飛び込んで来る。
残り1分で下り電車が発車……ッ!

「有里さぁーん。待って下さぁーい」

券売機の方から変な声が聞こえるけど、あれは、わたしには関係ありません。という顔? をして、2階の乗降ホーム目掛けて全力疾走した。

目の前に、エスカレーターと階段が立ち塞がる。

……さあ、どっち?

わたしは、迷わず階段を選択すると、一段飛ばしで一気に駆け上がる。
猛然としたダッシュに、何人かの乗客が、驚いて振り向き立ち止まった。

でも、今はそれどころじゃないの、ごめんね。
胸の中で手を合わせながら、ラストスパートをかける。

これってまるで、高校時代にやらされた階段ダッシュみたい。
まさかこんな時に、部活で先輩にしごかれた経験が、役に立つなんて……

ホームに駆け上がったわたしの前方に、銀色の車両が姿を現した。

……息が上がってくる。
鈍い痛みが、再び股のつけ根を襲ってくる。

でも、あの男と一緒の一日を想像すると、こんなの全然我慢できる。

もう少し……なんとか間に合いそう。

わたしは、空いている扉からすれすれで駆け込んだ。
同時に発車ブザーが鳴り、背後の扉が、エアー音を二度残しながら閉まっていった。

「はあっ、はあ……はあっ、はぁ……」

こんなにハードに身体を動かしたのは、何カ月ぶりだろう。
まだ、心臓がドクンドクンと鳴っている。
こんなことなら、毎朝、ジョギングか何かしておけば良かったかな。

「すーっ、はぁー。すーっ、はぁー……」

わたしは呼吸を整えようと、大きく息を吸い込み、ゆっくり吐き出し、それを何度か繰り返した。

窓の外の景色がゆっくりと流れ出し、車両は軽いモーター音を響かせながら、何事もなかったように走り始めた。

……まさか、乗ってないよね。

わたしはさりげなく周囲を見回して、安心したように、ふーっと息を吐き出した。
気が抜けたせいか、髪の生え際から玉粒みたいな汗が、後から後から流れ出し、ほっぺたから首筋をベットリ濡らしている。

「どうして朝から、こんな目に会わなきゃならないのよッ……!」

わたしは腹立たしげにつぶやきながら、いつもの定位置に身を寄せると、ショルダーバッグからハンカチを取り出し、押えるようにして丁寧に汗を拭い始めた。

もう、こんなのこりごり……

きみも、疲れたでしょ?
わたしの後ろをピタッと付いて来てたもんね。
なかなか、やるじゃない。

……ああ、そうだ。さっきはありがとうね。
おかげで、あの男を振り切ることが出来たしね。
これからも、よろしく頼むよ。



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