第2話
早速藍子は、相川の件を武彦に相談した。
「へぇ~、凄いじゃないか!思い切ってやってみれば?」
「うん……」
「どうしたの?気乗りしないの?」
「だって、大変なお仕事だから私に出来るかな~?」
「藍子は才能があるから大丈夫だよ!」
不安は他にもあった。
大成ホテルの専属サロンになれば、確かに収入は安定するだろう。
しかし、夫との夫婦関係に悪影響を及ぼさないだろうか。
新郎新婦との打ち合わせや、度重なるプランナーとのミーティングで、
生活のリズムが一変するに違いない。
果たして仕事と家事の両立が出来るだろうか。
「家の事は僕も協力するよ」
武彦が藍子の心の中を見据えたように言った。
「藍子ならきっと出来るさ!」
「あなた……」
藍子は目頭が熱くなった。
◇
翌日、店のスタッフにも相談した。
「先生!私頑張ります!」
「お嫁さん創りですか!やったー!」
2名のスタッフは歓喜した。
「あなたたちにも頑張ってもらいますからね!」
「は~い!その代わりお給料もアップして下さいね!」
「はいはい」
店内は開店以来の大賑わいだった。
「ところで先生、土日のお店はどうするんですか?」
「それが問題ね……」
「スタッフを募集しましょうか?」
「そうね…… あと2名くらいは必要ね」
「じゃあ私、チラシを作りま~す!」
「ちょっと待って!まだ大成ホテルと契約したわけじゃないのよ!」
「あっ、そうか!」
「まったく、気が早いんだから!」
藍子と2名のスタッフは、顔を見合わせて笑った。
「先生、善は急げですよ!相川さんにお電話した方が?」
「そうね。今お電話してみましょうか?」
藍子はポケットから携帯を取り出した。
「もしもし、モダの藤沢です」
相川の声は弾んでいた。
「それじゃ、早速契約しましょうか?」
「お願いするわ」
「先生のご都合は?」
「今夜でも構わないわよ」
「そうですか。では、大成ホテルのロビーで8時に待ち合わせましょう」
「わかったわ。いろいろありがとうございます」
電話を切った後、藍子はガッツポーズをした。
二人のスタッフは、歓声を上げ抱き合って喜んだ。
「先生、1年間辛抱して良かったですね!」
「あなたたちのお陰よ!」
藍子の胸中は、スタッフと夫である武彦への感謝の気持ちで一杯だった。
しかし、この後我が身に起こりうるいかがわしい事態を、藍子は知るす
べもなかった。
藍子は7時30分に店を閉め、大成ホテルに向かった。
モダからは車で15分ほどの距離だが渋滞に巻き込まれ、大成ホテルに
着いたのは8時5分前だった。
相川は、ロビーのいちばん隅に座っていた。
「相川さん、お世話様!」
「あっ、先生、ご苦労様です」
「お待ちになりました?」
「いえいえ、僕も着いたばかりです。さ、掛けて下さい」
相川は、灰皿にタバコを揉み消しながら促した。
「さすが先生、決断が早かったですね!」
「そうね、主人とスタッフが賛成してくれたから、やってみようと思っ
て……」
「ほう、ご主人も了解してくれたんですか~?」
「ええ、家事も手伝うって言ってくれたのよ~」
「優しいご主人ですね。うふふふ……」
藍子は、相川の言葉に不吉な予感がした。
「ところで相川さん、ご契約はどこで?」
「あっ、そうそう、大事なことを忘れてましたね。うふふ……」
「……」
「契約は、うちの社長として下さい。ご案内します」
「えっ?社長と?」
「はい、社長室で待っております」
相川は、タバコを胸ポケットに押し込み立ち上がった。
大成ホテルは、2階から6階までが客室で、7階はレストランやバーが
メインだ。
エレベーターに乗り8階で降りると、会議室や応接室があり、社長室は
いちばん奥にあった。
「相川君かね?入りたまえ」
相川がインターホンを鳴らすと、室内から太い男の声が聞こえた。
「社長、お邪魔します!」
部屋に入ると、藍子がこれまでに見た事もない豪華なアンティーク調の
ソファーと、大理石で出来た大きなテーブルが置かれていた。
そして部屋の奥には大きなデスクがあり、そこには初老の男が座ってい
た。
「社長、こちらがヘアーサロン・モダの藤沢さんです」
「モダの藤沢です」
藍子は、深々と頭を下げ名刺を差し出した。
「ああ、ご苦労さん」
男は立ち上がり、デスクの引き出しから名刺を取り出し藍子に手渡した。
名刺には“大成ホテル 代表取締役社長 亀山金吾”と毛筆体で書かれ
ていた。
社長の亀山は、鼻の下と顎に白髪混じりの髭を蓄え、60代前半に見え
た。
頭髪は年齢には相応しくないほど鬱蒼と生い茂り、がっしりとした体格
の大男だ。
大きな目を眉毛が覆い、鼻は肉団子のような形をしていた。
「では社長、僕はこれで失礼します」
「ああ、ご苦労さん、気を付けて帰りたまえ」
相川が退席し、社長室には藍子と亀山の二人になった。
藍子は室内の空気が、やけに重苦しく感じた。
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