闇色間セレナーデ 第1話 闇に溶け込む白い裸体 2015/09/19 18:00.00 カテゴリ:闇色のセレナーデ 【第1話】人通りの途絶えた深夜の裏通りを、ひとりの男が歩いていた。ただし異様なほど無駄の多い歩様である。幅3メートルほどの道路をジグザグに移動しては、道端に立ち並ぶ電柱にタッチするように身体を接触させて、反対側へと弾かれていく。「うぃー、ひっく……ひっく……」そう。この男、佐伯卓造は酒に酔っていたのだ。会社帰りに、行きつけのスナックでビールの大瓶を5本ほど空けたまでは覚えている。けれども、その後の記憶は白いモヤに包まれたように思い出せていない。気が付けばこうして、家路に向かって歩いている。本人の目線に合わせれば真っ直ぐに。第3者の目線に従えば、溝にはまらないのが奇跡というレベルの千鳥足で。「ちっくしょー! やまんした課長めぇ。なーにが佐伯君だぁ。年下のおめぇにクン読みされてよぉ、肩に手ぇを置くなぁってんだぁ。だいたい、やまんしたぁ。おめぇの尻拭いを誰がぁ、したと思ってんだぁ。おぉぅっ……ひっく……」卓造の愚痴と共に吐き出される酒臭い息が、真冬の大気に触れて白く反応する。節分を目前に控えた氷点下の風が、だらしなく着込んだコートの隙間に潜り込み、アルコールで温められた肌から貴重な体熱を奪っていく。「うぅぅっ、さむぅ……だれだぁ、俺っちの胸元にぃ、手ぇ突っ込む奴はぁよぉ。ま、女ならぁ……ひっく……許してぇやるけどよぉ」普通の酔っ払いレベルなら、この辺りで素面に戻るものだが、この男は違った。月に一度の給料日の夜になると、浴びるほど酒を飲んでは何もかも忘れ、仕事の憂さを晴らしているのだ。卓造は、中堅規模の文房具卸売会社で営業畑20年のベテランだが、融通の効かない性格からか出世は遅れ、今では窓際族候補生と陰口を叩く者さえいる。今年で42になるが、未だに独身である。そこそこ背も高くルックスも悪くないのだが、不思議と女運には恵まれず、これまで5度の恋愛を経験したものの、身の周りの世話から夜の営みに付き合ってくれる妻というパートナーはついに現れなかった。その代わりといってはなんだが、アパートに帰れば、連れ添って8年になる三毛猫のミニィが待ってくれてはいるが。もちろんメス猫である。「ひっく……ひっく……」千鳥足ながらも、スナックを後にして1キロほど歩いた頃だった。目指すアパートの明りが、素面なら遠目に確認できる程になって、卓造の耳は聞き慣れない音を拾った。ぼそぼそと話す若い男の声と、これは女のものだろうか。ハードな運動でもしたかのような激しい息遣い。それに、耳障りなモーターの音も。(なんだぁ、いったい?)気にならない訳ではないが、酔いの回った卓造にそれを詮索する気力など持ち合わせていない。立ち止まろうともせずに、ヨタヨタとした足取りのまま更に数メートル歩いた時だった。今度は、視野の隅っこに人影のようなモノを捉えたのだ。「誰かぁ、立っていやがる」狭い路地通しが交差する十字路に差し掛かっていた。その進行方向の左側。ここから数10メートル離れた所で、長身な男が紐状のようなモノを引っ張るようにして佇んでいる。「ふーん、犬の散歩ねぇ。寒い中ぁ、ご苦労なこって」ご苦労なと言うわりには、全然同情のない口ぶりでそう呟いた卓造は、虚ろな目でその人影を眺めていた。真っ暗な道端に取り残されたような街灯がある。その光の輪から少し距離を置いて立つその男は、卓造が『犬の散歩』と言わせたように、路面にうずくまった白い物体に視線を落としていた。(ションベンでもさせているのかもしれんが、この吹きっ晒しの風に当たって、飼い主だけじゃない。犬だって可哀想に)アルコールが回っている割には、妙にそこだけ冷静になれた卓造だった。しかし長居は無用とばかりに、再び歩き出そうと前を向いた。年季の入った皮靴が一歩踏み出そうとして……なぜかその足が止まった。上半身を捻る形で、もう一度その男を見つめていたのである。正確には男ではなく、男が連れている真っ白なペットの方を。(あれは……犬なんかじゃねぇ。そう、あれは……!)卓造は上半身だけではない。下半身も捻っていた。左向け左をすると、帰り道から外れて真っ直ぐにペットを連れた男の元へと向かった。リードを引き寄せるようにしてペットを立ちあがらせ、卓造に背を向けようとする人影を、いつのまにか懸命に追い掛けていた。「おーい、待ってくれぇ」足がもつれそうになりながらも、確実に目標としたモノとの距離は縮まっていく。そして耳障りなモーターの音は、はっきりと聞き取れるほど大きくなり、激しい息遣いがやはり女のものであることを認識する。「こんばんわ。寒いですね」見た目20代半ばの男は、卓造が到着する前に向き直り、悠然とした態度で口を開いた。「あ、あぁ……こんばんわ。それよりも、アンタ。これは?」酔いはかなり冷めていた。卓造は歯切れの悪い口調でそう返事すると、それを補うように足元で固まっている白い肌をしたペットを指さしていた。「え? あぁ、これですか。こいつは僕の飼っているメス犬で、名前をチカって言うんです」「メス犬ってアンタ。こ、これはどう見たって、そのぉ……女の子だろう?」「女の子? まあ人間の年齢に直せばチカも17才くらいだから、当たっているといえば当たっているけど。おじさんって、変わった表現しますね。ちょっとお酒臭いし、酔っていらっしゃるでしょ」ダウンジャケットを着込んだ男は、赤ら顔の卓造をじっと見るなりそう言うと、顔を伏せたまま震えているチカの首筋を撫で始めた。うなじの上あたりで真っ直ぐに切り揃えられた黒髪。その直ぐ下で純白の肌に喰い込む、なめしの効いた本皮製の首輪。(俺は……何を見ているんだ? 人間の少女? それとも……メス……犬? イヤ、そんなわけはない。いくら酔っ払っているからって、犬と人間を見間違えるなんて?!)目次へ 第2話へ